https://youtube.com/watch?v=8mGBaXPlri8&feature=shared


 2002年発表、日本では2003年3月5日発売。

 2001年にロシアで発売したアルバム『200 по встречной』の英語版。

  オリコン総合アルバムチャートでは初登場1位を記録し、その後通算3週1位を獲得、さらにミリオンセラーを記録する大ヒットとなりました。

 外国人アーティストのファースト・アルバムでのオリコン総合アルバムチャート初登場1位はBoAの『LISTEN TO MY HEART』以来、史上2回目でした。また、洋楽アーティストのファースト・アルバムでのオリコン総合アルバムチャート初登場1位は史上初。それまでは1986年3月10日付にてチャーリー・セクストン『ピクチャーズ・フォー・ブレジャー』が記録した初登場4位が最高記録でした。日本での初アルバム『t.A.T.u.』は国内盤と輸入盤の合計で200万枚が売れました。まだ、買った皆さん、持ってますかね。中古屋で大量に見かけた時期があったような。


t.A.T.u.は、当時の日本では「宇多田ヒカルのデビュー当時に匹敵する」ともいわれる人気グループでした。


  このヒットを受けて、2003年4月18日 、t.A.T.u.が初登場し「ALL THE THINGS SHE SAID」を披露する予定だったが、直前に出演をキャンセル。代役として森山直太朗が初登場。「さくら(独唱)」を披露した。結果的にこれが森山とSMAPの初共演となった。 2003年6月27日 、 t.A.T.u.が初登場。オープニングは出演していたが、その後の出演をボイコットした。 いわゆる「t.A.T.u事件」とされ、このボイコットは後に、t.A.T.u.の当時のプロデューサーであるイワン・シャポワロフの指示で行ったことが明らかにされている。 THEE MICHELLE GUN ELEPHANT は、この日初登場ながら出番が繰り上げられた上、t.A.T.u.の埋め合わせに、予定になかった「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を披露することとなりました。28日、t.A.T.u.の所属するユニバーサルミュージックがテレビ朝日に謝罪しまさはた。一方、29日にメンバー自身とシャポワロフが会見を開いたものの謝罪せず、そのまま帰国しました。2013年の取材でメンバー2人は、「このドタキャンはシャポワロフから電話で指示されたもので、まだ10代だった2人は彼の指示に従わざるを得ず、テレビ局を立ち去った。その後シャポワロフは、指示の理由を『話題作りのため』と明かした」と語っています。 2003年12月に再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施しましたが、両日とも5万人の会場の半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人でした)。公演前、S席7500円・A席6500円のチケットがネットオークションなどに数百円ほどで大量に出回っていました。 東京ドームコンサートの日、ユーリャ・ボルコワは体調を崩して出演できる状態ではなかったのですが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがありました。しかし、渋谷陽一さん・四方宏明さんなどの絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるt.A.T.u.ブームは完全に失速したものとなりました。また、このコンサートでもシャポワロフはヴォーカル2人に直前のキャンセルを指示していたために、ヴォーカルのふたりとシャポワロフの信頼関係は完全に失われました。


 まあ、このミュージックステーションの件は、「多分、何かしらやらかすな」という嫌な予感はありました。

不幸中の幸いは、ミッシェル・ガン・エレファントが最高のライブバンドだということを再確認させてくれた出来事でした。




 

 





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