https://youtube.com/watch?v=eTfZHIFT4zo&feature=shared


 1987年10月1日発売。6枚目のシングル。また尾崎豊さんとしては3枚目の12インチシングルとなりました。反核イベント「アトミック・カフェ・フェスティバル'84」に参加するために制作された楽曲「反核」が原型であり、街からの疎外感を表現した重苦しい歌詞と暴力的なサウンドや絶叫に近いボーカルなどが特徴となっています。後にリリースされたアルバム『街路樹』の収録バージョンは、全てが再録音されボーカルやアレンジが変更されています。 本作はオリコンシングルチャートにおいて最高位第2位を獲得、売り上げ枚数は18.8万枚。ライブにおいては1987年のコンサートツアーと1988年の東京ドーム公演のみで演奏さました。


 レコーディングは1987年にスタジオテイクワン、セディックスタジオ、スタジオスカイにて行われた。プロデューサーは吉野金次さんと樫原伸彦さんが担当。本作は尾崎さんのデビュー当時に完成形に近い内容の歌詞がノートに記されていました。その後1984年8月4日に開催された日比谷野外大音楽堂での反核を訴えるイベント「アトミック・カフェ・フェスティバル'84」において演奏された「反核」という曲の歌詞をアレンジしたものであり、完全なる新作ではありませんでした。同年のコンサートツアー「FIRST LIVE CONCERT TOUR」においても演奏されており、3年を経て正式にレコーディングされる事となりました。尾崎さんは後に「アトミック・カフェ」について、反核のイベントであるにも拘わらず「反核」が主題にならないままお祭り騒ぎをするだけのイベントであったと批判しています。 後にアルバム『街路樹』に収録されていますが、基礎的なアレンジは共通しているものの、歌唱方法やアウトロのアレンジが変更されており、完全な別バージョンとなっています。本作のレコーディングでは装飾性が排除されており、書籍『地球音楽ライブラリー 尾崎豊』においてライターの落合昇平さんは、ギターやハーモニカ、ボーカルに至るまで「まるで雨に打たれているかのように灰色に塗りこめられている」と述べています。尾崎さんは録り直しを切望しましたが、スタッフから拒否されたことを後の自著で明かしています。


 尾崎豊さんがデビュー当時から本作を演奏してきた理由は、「個人の愛」こそが世界を包める唯一のものであり、イデオロギーとしての平和や愛だけでは足りないという認識を確認するためであったといいます。そのために初披露から3年経た時点でのリリースを決定したのではないかと推測されています。書籍『盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論』にて著者の見崎鉄さんは、本作リリース後に尾崎さんが覚醒剤取締法違反によって逮捕された事から、本作では覚醒剤による幻覚症状のような歪みや不安感を感じさせる内容になっていると指摘しています。見崎さんは本作において街からの疎外感がそれまで以上に強い言葉で描かれていると指摘した他、終盤に唐突に「反戦」「反核」という言葉が登場する事に関して二つの要素があると述べ、一つは「反戦」や「反核」といった大きな問題の前に人々は日常生活を成立させなければならないという事、もう一つは歌詞中の人物が怯えている対象が不明瞭であり、それこそが核戦争による死の恐怖によるものであると思わせる仕掛けとなっていると解釈しています。

 音楽誌『PATi・PATi』1987年11月号にてインタビュアーは、それまでの尾崎豊さんの曲は歌詞の内容が暗澹たるものでも比較的聴きやすい曲調であったのに対し、本作はボーカルの荒々しさやアコースティック・ギターやピアノの音も優しくなく曲全体が暗澹たる構成になっていると指摘、それに対し尾崎さんは「ヘヴィーである事を受け入れられる心の余裕みたいなもの」や不安感や怯えのような事を最初に歌いたかったと述べています。


 なるほど、アルバム『街路樹』。『放熱への証』と並んで、僕自身、10代、20代の頃はさっぱり分からない作品でした。病んでいるなと感じてはいましたが、これ、マーケットに乗せる気ないでしょう?って感じてました。今、聴くと印象変わるのかなあ。




 

 


 

 






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