https://youtube.com/watch?v=Hy8kmNEo1i8&feature=shared



Scatman Johnは、52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。メジャーデビューアルバム『スキャットマンズ ワールド』は日本やヨーロッパ諸国など全世界で600万枚以上を売り上げ、各国のチャートでNo.1を飾ります。自身の障害である吃音症を逆手に取った、模倣が困難なスキャットと、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古いヒンドゥー教の喉で歌う歌唱法から取り入れた)を用い、独特のジャンル『テクノスキャット』を開拓しました。 日本で1996年度ベスト・ニュー・インターナショナル・アーティストを受賞、ドイツでビッゲスト・クロスオーバー・アーティストECHO賞を受賞、またイタリア・フランス・ポーランドでも多くの賞を受賞。アルバムとシングルのヒットにより、合計14枚のゴールドディスクと18枚のプラチナディスクを獲得するなど、数多くの受賞歴を持ちます。 音楽活動以外では、吃音者団体との交流を深め、彼らを支援するためのスキャットマン基金を設立、1996年に世界の吃音者に関して著しい功績を与えたとしてアニー・グレン賞、チャールズ・ヴァン・ライパー賞を受賞。 1999年12月3日にロサンゼルスの自宅で肺癌のため死去。57歳没。





「スキャットマン」(英語: Scatman (Ski-Ba-Bop-Ba-Dop-Bop))は、スキャットマン・ジョンの楽曲である。ジョンのデビュー・シングルであり、1stアルバム『スキャットマンズ ワールド』にも収録されました。

 この楽曲の特徴であるスキャットは彼自身が持つ言語障害、吃音症を転換した物であり、その歌詞は「吃音症の子供たちが逆境に負けないように」という彼の思いが込められています。それと同時に政治批判の側面も持つといった今後の彼の楽曲に見られる特徴を備えています。 この曲の全体のテーマは「誰でも吃る」という事であり、頻繁に出てくる吃音という単語も、言葉を始め、それが行動に現れる人や、性格がそのような人。つまりみんな問題を抱えているという事を歌いたかったと全国言友会連絡協議会とのインタビューで彼は語っています。 発表当初はさほど勢いの無かったこの曲ですが、後に多くのラジオ番組に取り上げられ遂には世界各国でヒットチャートに入るようになり、多くの国のランキングで一位になり、特にヨーロッパを始め、オーストラリア、日本での人気が高かったようです。日本のオリコン洋楽シングルチャートでは1995年8月14日付から通算2週1位を獲得しました。1996年にはエコー賞のドイツ楽曲賞を受賞しました。 彼の名を知らしめた曲であり、彼の楽曲の中でも最も有名な曲。 彼の死後現在もこの曲は毎年のように世界各国のDJ達がリミックスしている事から、彼の曲の中で一番リミックスのバージョンが多い曲でもあります。

 事の始まりは、ジョンの妻ジュディがジョンが仕事をしていたホテルのロビーで、エージェントのマンフレッド・ザリンガーに一本のカセットテープを渡した事が切っ掛けである。彼は帰りの車中でそのテープを流した、するとそこから流れてくる今までに無い斬新なサウンドに驚きました。そのテープにはジョンのスキャットソングが収められていたのです。すぐに車中からジョンとジュディに電話をし、ある提案をする。それはジョンのスキャットをテクノあるいはヒップホップと融合させてみてはどうか、というものでした。ジョン自身はその案に懐疑的でしたが、同じアイデアを持ちかけられたBMGはこれを受理しました。しかしジョンは曲を聴いた人々に「単にどもっているだけ」と受け止められることを内心、非常に恐れていました。悩むジョンに対し妻ジュディは、「あなた自身の『そのこと』を、 曲の中で直接伝えればいいじゃない」と助言した。 こうしてインゴ・カイズとトニー・カターニャのプロデュースにより、レコーディングが始まりました。レコーディングには6時間もの時間を費やし、この曲は完成しました。


 ミュージックビデオは、モノクロで撮影され、沢山の人が次々と登場して歌とダンスと演奏を行っている。この時ジョンは自慢の帽子を被っていませんでした。このミュージックビデオ、真夜中にテレビで流れて、独特な楽曲、パフォーマンスが頭に残りました。徐々に話題になっていたようで、当時の寮生活でどんどんCD持ってる子が増えました。


 しばらくは謎のおじさんでしたが、人気が出てグリコやカネボウのCMに出始めましたね。肺癌のため死去。57歳の若さで亡くなられたのは残念でした。