https://youtube.com/watch?v=e9u3Ymyu-uE&feature=shared


 22枚目のシングル、1988年11月1日発売。オリコン週間3位。

 これにより「サザン・ウインド」から「TATTOO」まで続いていた同チャートの連続首位記録が本作で途絶えました。しかし次作の「LIAR」では再び1位を記録しました。音楽番組では、TBS系の『ザ・ベストテン』でも最高位3位でしたが日本テレビ系の『歌のトップテン』では1位を記録しました。トータルセールスでは、この年リリースしたシングルの「AL-MAUJ (アルマージ)」と「TATTOO」を上回りました。またこの作品のヒットにより、明菜さんの全シングルの総売上枚数が1000万枚を突破しました。

 1994年7月には「I MISSED "THE SHOCK"」を楽曲提供した福士久美子さんが、自身1枚目となるソロ・アルバム『悲しいライオン』でこの楽曲をセルフカバー。歌う人によってこうなるんだと驚きました。中森明菜さんの80年代は、衣装がコンセプトに合わせて大きく代わり、派手なセットやPVってあまり必要が無かったですね。『不思議』を出してから、ゴシックの世界をやりたかったのかな。オリコン1位を獲れなかったから、人気が落ちたというレベルでは無かったような。ただ、難しいリズムが交錯して、一般受けは難しかったかもしれないですね。でも、じわじわとチャートで粘っていたと記憶してます。


 この楽曲は、ソロ活動の他、SHERBETSのメンバーとしても活動する福士久美子さんがQUMICO FUCCI名義で楽曲提供し、前作「TATTOO」に続いてEUROXが編曲を担当ましした。当初A面だった「BILITIS」をB面に替えて本曲がA面となりました

本曲を歌うときに着ていた衣装は、当初中森明菜さんに向けて作られた衣装ではなかったそうです。明菜さんが雑誌に掲載されていたデパート伊勢丹の広告にこの衣装を着たモデルを見て、「この曲のイメージにぴったりの衣装が見つかった」と一目惚れ、この衣装のデザイナー甲賀真理子さんに「ぜひ私の曲の衣装として、この衣装を提供して欲しい」と直訴した。当初甲賀さんはこの申し出に難色を示しましたが、明菜さんの熱烈な要望に対し快諾、衣装として提供することとなった。この衣装は、1988年7月20日から開催していた全国コンサート・ツアーFemme Fataleでも使用されました。衣装(青)の画像は、甲賀真理子さんの公式HPにて見ることが出来ます

同曲は1988年の第39回NHK紅白歌合戦でも歌唱されました。「I MISSED "THE SHOCK"」のタイトルについて「日本語に翻訳不可能」と解説されており、明菜さん自身も同様のコメントを残しています。


 紅白歌合戦で『TATTOO』ではなくこちらを選んだこと、当初の「BILITIS」と替えてA面にしたこと。明菜さんのアーティストとしてのこだわりを感じました。


 



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