前回の話で、以下に私がこの世界に絶望し、死に恋焦がれ、霊とのふれあいが最後の世界と信じていったかどうか、その心の一面が垣間見えたかと思います。

恋人はいないですし、将来に悲観していました。
それは金銭的な面や、キャリアという意味でもあります。
親に愛されていたのでしょうか。その問いにすらNoというのが私の答えでした。

もう何もありませんでした。
この世界でしたいことも、何かが欲しいということも…この世界は私を満たすことはない、そう強く信じました。

それは私を霊とのふれあいの果てしなく強い原動力になりました。
もう何もないから、あとは残された日々をただ過ごすだけ。
もう何もないから、あとは世間体は無視できる。
霊とおしゃべりするという行動は科学の信徒として今まで生きていた私の世間体を強く揺さぶります。ですが、もう何もないのです。なら、いいじゃないですか。
絶望の果てに霊たちとのふれあいの世界にいざなわれたのですから。

ますます視える果ての空。

例えば、人が電気の存在でしかないという理。
あの時の想い、そして諦念。その果てに諦念が叶う幸せという概念。感情は即ち電気。
幸せの理とは、即ち諦念。わかりやすくいうと、「現状に満足すること」。
感情制御の論理を最分解し、別の概念で再構築を行う。
その繰り返しの毎日。

そんな中、霊に何かを教えてもらうと、人間ってもこんなものか、そう思って、自殺しようと考えるのです。

神隠しという現象があるかと思います。
神隠しは私にとっては究極の自殺と捉えました。

神が気に入ったから、隠してしまう、死を要求する、そういったものは経典上の世界観かと思いますが、私は量子的に考えました。

神隠しとは即ち、量子構造を理解し、自身の意識を完全に分解し、無に至るということなのです。
そこまで世界の構造を知ったものにしか出来ない、輪廻転生の道を完全に自らの意思で終わらせること。
最後の終り。一番の幸せ。真の魂の解放。

このようなことを考えた時に、自分で出来るのならば自分を消してしまおうと考えたのですが、
意識レベルでは消えていけたのですが、身体の細胞が痛い!と悲鳴をあげた為、うまくいきませんでした。
無への渇望という新たな欲望の瞬間です。

しかしながら、すでに私にとって、霊が見える時点で死に格段な意味は存在しません。
前回も話しましたが、死んだ所で人間性は変わりませんし、
霊たちとのふれあいを繰り返していくと、時には

愛の仕草だけをただ繰り返す(追憶/梶浦由記)

状態になることすら、あります。
幸せの時間をひたすら回すことは感情制御で知りましたが、
これを実現するため、無へ至る気はないけれども、とりあえず、
霊たちは幸せに生きたいなぁと思ったので、
これを行う為に自身と向き合う必要性を強く認識した様でした。

自殺をしてはならない、という規律を消滅させた所で、霊とのふれあいは
自殺に意味はない、そういった考えになるので、死にたいと強く願うことは激減しました。

それからというもの、家に帰ると、霊がベッドで座って瞑想していたりとかするわけです。
私の瞑想は座ってすることはあまりありません。

今日の一日を振り返るくらいなら、寝て行いますが、
そうじゃないときは色々な部屋や色々な場所に行きます。
あまり動かない霊のお話が聞きたいからです。
お話を聞くと、色々な私の考えが発生し、新しい境地に迎える気がします。

その繰り返しで人は成長するのでしょうか。
それは間違いでもあるし、正解でもあると思います。
成長する遊びをこの世界に提供したのは他ならぬ昔の自分自身なのですから。
そのように私は考えます。

最後に待っているのは神隠しでしょうか。

ならば、人生想い存分、あとは遊ぼうじゃないですか。
こういった考えを思いついたとき、ちょっと生き方が変わりました。


果ての果ての世界へ。少しずつ。