マルクスは、確かに労働者の「貧困化」を問題視しているが、我々の常識に反して、その内容は、貧富の格差や経済的困窮に還元できない。なんと彼は、労働者の受け取る賃金が高かろうと低かろうと労働者は「貧困化」するとまで主張している。実はマルクスの言う「貧困化」の核心的内容は、労働苦や知的退廃、家族関係の荒廃など、生活状態の質的劣化であり、特に労働苦にも焦点が当てられている事実はもっと知られるべきである。
マルクスにとって共産主義社会(その第1段階である社会主義を含む)は、国家無き無政府社会である。企業の国有化も政府による経済統制も全く不可能である。「共産主義国家」という表現自体が「四角い丸」のように実在しえないものの言語化でしかない。
すべての財産の共有というが、歯ブラシやパンツ、茶碗に盛られた飯の一粒一粒まで共有するというのか。歯ブラシやパンツは我慢すれば、共有可能だろう。しかし、飯粒は、最終的には、特定個人の胃の中に落ちて行くのであって、共有など不可能だ。マルクスならずとも、このような事は承知のはずで、実際、すべての財産の共有を唱えたものは、一部の狂人以外には、存在しない。
マルクスに関していえば、生産手段の社会的個人による所有が主目標であり、集合財以外の消費財にまで共有化を及ぼそうとした事実はない。
「分け前の平等」…これは、マルクスが絶対に主張しないところである。何故なら、分け前の平等を要求する思想は、彼が克服の対象としていた私的所有への囚われから生じる思想傾向の一つに他ならないからである。
私的所有への囚われから生じる思想傾向(=「私的所有の思想」)には二つの種類がある。
一つは、「競争の本質」。これは、自分よりも少しでも富める者を妬み羨みそこから少しでも掠め取ろうとする傾向である。この傾向によって相互掠奪のゼロサムゲームが展開されるのである。
*なお、マルクスは、競い合い一般を否定しているわけではない。例えば、技術革新をめぐる競争については、資本論において特別剰余価値論、特別利潤論として詳細に展開されており、それは将来社会の自由時間確保の基盤となる生産力発展の梃子として重要な意味を持っている。
もう一つは、「粗野な共産主義」である。これが、まさしく「分け前の平等」を要求する思想である。相互掠奪の消耗戦を忌避する人々の間に生まれた思想である。しかし、、マルクスは、この思想を全く評価しない。「競争の本質」と同じ富者に対するルサンチマンから生じたものに過ぎず、それどころか、私的所有すら成立していなかったような文明以前への退化でさえあるというのである。
つまりマルクスにとっては、「競争の本質」の方が「粗野な共産主義」よりも、マシなのである。「競争の本質」は文明的段階に達した社会で支配的な思想傾向だが、「粗野な共産主義」はそうした水準からの後退でしかない。「分け前の平等」は、克服すべき私的所有への屈伏から出発して、さらにはその私的所有よりもさらに劣る状況へと陥ることになる。こんなものがマルクスの目指すものであるはずがない。
*以上は、マルクスの初期の著述物である「『経哲草稿』で展開されている議論である。
では、マルクスが目指した将来社会では、財の配分は如何に行われるのだろうか。『経哲草稿』での「粗野な共産主義」に対する批判的見地をマルクスが晩年まで放棄することがなかったことを示すために、後期の著作である『ゴータ綱領批判』を検討しよう。
マルクスはこの著作において将来社会を二つの段階に分けている。第1段階では、人々は能力に応じて労働し、労働量に応じて生活資料を取得する。能力には個人差があるのだから、労働量に個人差が生じ、生活資料の取得にも差異が生じる。個々には分け前の平等はない。
マルクスは、この段階を権利が平等な段階(分配の尺度として労働時間という共通の尺度が等しくすべての個人に適用される:同じ物差しで様々な分配量を尺度するので、分け前が等しいことではない)としているが、この段階の分配には不合理な面が残るとして、そうした不合理を解消するためには、権利の不平等を実現することが必要だと指摘している。
第2段階では、人々は能力に応じて働く。この点は第1段階と変わらないが、生活資料の分配は、各人の必要に応じて行われる。何をどれだけ必要とするかは、人それぞれなのだから、ここでも人々は平等な分け前を受け取ることにはならない。
マルクスは、終生一貫して、「分け前の平等」を否定したのである。
「国有と政府による経済統制、全財産の共有、分け前の平等をもって共産主義としたマルクス」といったものは、藁人形でしかない。