「琉球の虎」と呼ばれた男2
日本からやってきた侍、琉球の虎。沖縄を後にし、就職で上京した東京の生活でも、かなり、戸惑うことも多かったとか。一番、困ったのは電車のアナウンス。沖縄から上京したばかりの新垣少年には、電車のアナウンスが何を言っているのか、最初はよく聞き取れなかったそうです。沖縄にいる頃はどちらかというと大人しい方だったと言われた新垣少年もレースを始めることで、徐々に、その才能を開花していきます。そして、HRC入り。そもそも、日本で走っていたときは250ccクラス。それが、また、なんで、500になってしまったのか?もともと、本人は世界GPを走れるなら、どのクラスでも構わないと思っていたそうですが、やはり、当初は乗り慣れた250ccで行こうと考えていたようです。(サムライプロジェクト会員向けに配布された冊子には、125でも構わなかったという事も書いてありました。)ところが、その250の参戦枠はすでにいっぱい。最終的に、参戦できる枠が残っていたのは500cc(当時の呼び名はGP-1)クラスでした。シーズン中盤、バルセロナでの欧州GPの頃は、まだ、マシンに慣れるので手一杯の状態。しかし、そんな中にあっても、GPの生活には溶け込む事ができ、チーム・スタッフが話すフランス語もなんとなく理解できるようになってきたとか。当時のライディングスポーツによると、当初は欧州のプレスも「アラカキというのは何者だ?」という話から、「日本ではホンダのライダーだった。」というプロフィールが徐々に伝わり始めたとか。そして、欧州GPの予選では、一時、ドゥーハンを抜いてトップに踊り出て、プレスルームの記者達からは「ほお、やるじゃないか。」というため息も漏れたとか。しかし、これは残念ながら、計測ミス。とはいえ、新垣選手は手探りの状態で乗り始めた500のマシンを着実に自分のものにしていきます。開幕戦こそ、予選落ちはしたものの、その後は決勝に確実に進み、完走率も高く、ほぼ全てのレースを完走していたと記憶しています。そして、迎えた、フランスGP。92年のルールではポイントは10位以内入賞までしか与えられなかったのですが、このレースで念願のGPのポイントをゲットします。しかも、ROCヤマハのマシンの中でもトップというおまけまで付きました。レース終了後は、多数の日本人プレスに囲まれたのだとか。そして、続く、英国GPでもポイントを獲得。しかし、このときは誰一人、プレスは来なかったそうです。ブラジルGPでは14位、最終戦の南アフリカGPでは11位。獲得ポイント2ポイント。総合ランキング26位でデビューシーズンを終えます。続くシーズンの体制はまったく、決まらず。資金も不足している状態。そこで、新垣選手が出た行動は、それまで、ほとんど例のないものでした。なんと、ファンから募金を集めて、そのファンの名前をマシンにプリントして走る。ひと呼んで、「サムライ・プロジェクト」というものでした。サムライプロジェクトは1口1万円。目標口数2000口。それで2000万円の資金を集めて、GP参戦を継続しようというものでした。私も、当時、そのサムライプロジェクトに賛同し、12,000円を出資し、名前は当時、生まれて間もなかった、上の娘、「恵美里」の名前をプリントしてもらうことにしました。しかし、残念ながら、このサムライプロジェクト。目標口数には遠く及ばなかったものの、それでも、当時の会員は200人程度だったと記憶しています。そして、93年シーズン。マシンは型落ちとなる、92年型のROCヤマハ。シャーアラムでのマレーシアGPではハリス・ヤマハのジョン・レイノルズに続き、13位でフィニッシュするも、スタートでジャンプド・スタートと判定され、タイムに1分加算のペナルティで23位に。そして、迎えた第3戦の日本GP、鈴鹿サーキット国際レーシングコース。この年は500にHRCの伊藤真一選手、そして、同じく全日本組からビーティーもフル参戦し、俄然、日本の伊藤に期待がかかっていました。また、プライベーターでは元HRCの宇田川勉選手が参戦を始めたのもこの年でした。レースは一時、トップに伊藤が立つなどして、スズカは盛り上がりの雰囲気を見せます。しかし、その後方では、「琉球の虎」こと、新垣敏之選手がプライベーター・トップの座をかけて、二ール・マッケンジーと凌ぎを削っているところでした。マッケンジーといえば、87年の日本GPの予選で、いきなり、コースレコードを叩きだし、周囲をアッと言わせました。HBホンダの後、プライベートで250、そして、ラッキーストライク・スズキ、ヤマハモーターフランス。93年はTEAM VALVOLINEから93年型のROCヤマハのマシンで参戦していました。オープニング、13番手からスタートした新垣選手。しかし、後方のカジバの#12ムラディン、#11マッケンジー、#15宇田川に前を行かれ、ポイント圏外の16位まで順位を落としていきます。しかし、翌周にはマッケンジーをパスし、カジバのワークスマシンに乗る、当時、豪州からやってきた売り出しのルーキー、ムラディンを追い詰めます。そして、翌周には、そのムラディンもパスし、視界には同じプライベーターの宇田川選手。しばらく、一進一退の宇田川選手とのバトルが続きますが、6周目に前方を行く、TEAM ROBERTSのカダローラが脱落。宇田川、新垣の両名はそのまま、ポジションを1つ上げていきます。しかし、後方から、ジワリジワリと、仕事人マッケンジーが忍びより、両者を捉えようとしていました。12周を過ぎて、ようやく、新垣ポジションアップ。ここで、プライベーターとしては最高位の12位に踊りでます。しかし、後方からはマッケンジー。かつてはワークスの一員であり、鈴鹿の8耐や2&4にも参戦したこともあり、鈴鹿はおろか、世界のサーキットを知り尽くした実績のある英国人GPライダー。そのマッケンジーがとうとう、16周で、GP経験1年の新垣を捕らえ、プライベータートップに踊り出ます。そして、迎えたファイナルラップ。このまま、マッケンジーに押さえられてフィニッシュかと思いきや、最後の最後で新垣がマッケンジーの前へ。その差、わずかに0.3秒。手探りの状態で500に乗り始め、世界を経験すること1年余り。地元の日本GPで、見事、プライベータートップとして、チェッカーを受けました。もう、ルーキーでもない、立派な500ccクラスのGPライダーだと、あのシーンを見ていたファンは感じていたことでしょう。レース終了後。グランドスタンドにて、サムライプロジェクト会員の会合を行うとのことで、グランドスタンドへ行くと、チーム・スタッフの男性、女性が何人かお見えになり、マシンから外されたカウルが会員の前で公開され、それぞれ、皆さん、手にとりながら、自分の名前を確認しているところでした。残念ながら、その部分には娘の名前を見つけることはできませんでした。まだ、何人かのスタッフは興奮冷めやらぬ様子で、決勝の様子を振り返っていました。しばらくすると、新垣選手が現れ、ファンの前で挨拶し、その後、記念撮影やサインに応じてくれました。私の順番になり、オフィシャルプログラムの新垣選手のページを差し出すと、新垣選手はそこにサインを入れてくれました。私のつなぎの格好を見て、「自走して来たの?」と訊ねられ、「はい。」と答え、「どこから?」と聞かれ、「埼玉、朝霞からです。」と答えると、ちょっと、驚いた様子で、「どのくらいかかりました?」と聞かれ、私がその時間を答えると、一瞬、怪訝そうな表情をされました。そう・・・・。それまでは鈴鹿へ行くときは、実家に泊まって、予選から見ていたのに、あの時は初めて、直接、鈴鹿に行くということで、まったく、時間が読めず、とりあえず、前日に仕事を終えてから、夜中の3時に朝霞の自宅を出発。世田谷でガソリン入れてから、用賀から東名に入り、そして、気がついたら、ペースが上がり、途中、浜名湖でガソリンを入れたものの、朝の6時頃には岡崎の実家に着いてました。もう、17年も昔のことなので、よく覚えてませんが、カリフォルニア仕様の忍者のメーターの針がピークで、ほんの少し、余していたような気がします。まあ、岡崎からは、当時、23号線でも、朝の空いているうちなら、1時間半くらいで行けてました。それはさておき。ファンとの交流を終えた新垣選手。次のスペインに向け、火曜日には日本を発つということでした。そして、一言、「じゃあ、これで行きます。」ということで、パドックの階段を降りていかれました。そう、私は資金的な問題は何もなく、これでフル参戦できるものだと思っていました。