先週のテレビで、今から98年前の大正期に日本人企業家と船長がロシアの約800人の子供たちを救ったという話を知りました。企業家は神戸市長も務めた勝田銀次郎氏、船長は茅原基治氏。


時代は、日露戦争(1904-1905)を経て、10年後には協調外交で第一次世界大戦を英国とともに連合国の側に立ったものの、ロシア帝国が倒れ国内はソビエト政権樹立へと向かいます。日本は共産主義と対峙する立場から1918年にシベリア出兵を敢行。そんな社会環境の中での救出劇。悪化する日露関係の渦中、それは次のようなものでした。



勝田銀次郎

大正7(1918 )ロシア革命 後の内戦から逃れる為、4歳から18歳ぐらいまでの子供たち約800人が難民となり、ウラジオストクでアメリカ赤十字社 に保護されていた。さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社が主要国へ要請したが応じる国はなく、最後の要請を行った日本の貨物船が子供たちの受け入れを決めた。


その船が勝田汽船所有の『陽明丸』であった。陽明丸は貨物船だった為、勝田銀次郎が多額の改造費を寄付して子供たちが航海できる客船仕様に改造された。陽明丸(船長:茅原基治)は大正9(1920 )7月、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海した後、フィンランドへ送り届けた。子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラード へ戻ることができたという。


800人のロシアの子供を救った勝田銀次郎と茅原基治 | 泣けるブログ


この話がこれまで日の目を見なかったのは、勝田氏が、陽明丸船員がこのことで非国民扱いされるのを避けるため関係者に緘口令を強いたためだったといいます。それが、陽明丸に助けられたロシア人男女の孫オリガ・モルキナさん(59)が2009年、ロシアで個展を開いていた金沢市の書・篆刻(てんこく)家、北室さんに当時の詳細を調べてほしいと依頼したことで明らかになりました。


人道的立場から自らの責任を覚悟して果敢な行動に出た日本人として、ナチス・ドイツ の迫害によりポーランド 等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に対して外務省 からの訓令に反して、大量のビザ を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで「日本のシンドラー」と称された外交官・杉原千畝(ちうね)氏や、自艦を撃沈され海上を漂流する約千名の連合国兵士を救助した駆逐艦「雷」工藤俊作艦長が知られています。


混迷する日露関係。揺れるルーブル貨幣。一方、終わりの見えない「目には目を歯には歯を」式のハムラビ法典張りのイスラム過激派の報復。今こそ、日本人の気概と知恵を世界に降り注ぐときだと思います。