・昭和20815日の終戦の詔書(玉音放送 )の草案に対して、加筆したとされる。

・歴代首相に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。

池田勇人 の派閥研究会「宏池会 」の命名者である。

佐藤栄作 の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領 との会談がケネディに沖縄返還 交渉開始を決断させたと言われる。

元号 平成 」の名を考案したとされる。



そして、1983 (昭和58年)、当時銀座 のバーのマダムだった細木数子 さんとの再婚騒動。(後に婚姻の無効 調停)。当時、「老いらくの恋」と揶揄されました。



テレビドラマなどで政治家、大手企業経営者などが「ご意見番」にお伺いをたてに自宅詣でするようなシーンがありますよね。たいてい和服を着て、ひれ伏す彼らを睥睨しそれなりの意見をのたまう老人。ドラマでは好々爺として描かれることは多くありませんが、現実の世界に「昭和の教祖」と呼ばれてご意見番であったのが故・安岡正篤氏でした。



私は若い頃、安岡氏に興味を覚えかなりの著作を読んだのですが、今はその内容を思い出すことができません。実は忘れていたのですが、先日蔵書の処分をした際倉庫の本棚にかなりの著作がありました。さすがにこれらの本は処分できませんでした。



安岡正篤

安岡正篤やすおか まさひろ1898 213 -1983 1213 )は、「日本 陽明学 者・東洋思想 家。現在の大阪市 中央区 生まれ。1922 大正 11年)に東京帝国大学 の卒業記念として執筆され出版された『王陽明 研究』が反響を呼ぶ。文部省 に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立する」。



拓殖大学 東洋思想 講座講師をする傍ら『金鶏学院 』・『日本農士学校 』などを創設、東洋思想家・東洋古典研究家として軍部 革新官僚 華族 などに影響を与え、その名を馳せた。北一輝 大川周明 猶存社 のメンバーでもあった。年上である八代六郎 (元海軍 大将 )、山本五十六 、更には蒋介石 などとも親交があり、二・二六事件 の首謀者西田税 らに影響を与えた一人とも言われる。また戦時中には大東亜省 顧問として外交政策などに関わったとされる」。




「敗戦後、安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部 により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も政府中枢にあった事を理由に公職追放 される。その後は『師友会』(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行や全国各地を巡っての講演、更にはラジオ による講話などを通じた東洋古典思想の普及活動に転じた」。



「一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党 政治の中で東洋宰相学、帝王学 に立脚し元に常に政治家 たちの『精神的指導者』『陰の御意見番』、『首相指南役』の位置にあったとされる。GHQ による『3S政策 』の存在の可能性を著書『運命を創る―人生訓―』(プレジデント社・1985年)中で唱えた。 安岡自身は政治の表舞台に出ることを好まず、その生涯の多くは東洋古典の研究と人材育成に捧げられた」。(ウィキペデキア)

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