最近の政界、財界のトップの方が見せてくれる姿は、辞職による職責放棄という責任のとり方、雁首揃えたお詫び会見など子供たちには説明し辛いことが少なくありませんね。そんなことを考えていた昨日、ちょっと元気が出るようなお話を聞いてきました。
今私の地元・熊本では今年が熊本築城400年ということで様々なイベントが行なわれていますが、その一環で昨日行なわれた「肥後400年の品格」というシンポジウムに出席してきました。三部構成の最後は名君と言われた(恥ずかしながら、私はつい最近知ったのですが)細川家6代当主細川重賢候と、ほぼ同時代を生きた上杉鷹山候を取り上げての鼎談でした。
パネリストは、旧肥後熊本藩主細川家
の第18代当主で、元熊本県知事、元首相の細川護煕さんの奥様・細川佳代子さん、旧米沢藩上杉家第17代当主で宇宙航空研究開発機構名誉教授の上杉邦憲さん、「武士の家計簿」の著作がある茨城大学人文学准教授の磯田道史さん。
磯田さんは、この二人の名君の共通点を、「人を大切にする」という発想の国づくりを目指したことにあると指摘されました。上杉鷹山のことは既にご存知の方も多いと思いますが、一方の細川重賢候は、革命的な改革を断行するには、重賢自身が藩主としての「既得権益」を放棄するとともに、非常時に才覚を発揮する能力をもった人材を発掘し、抜擢し、全権を委ね荒療治をやらせなければ世の中はぴくりとも動かない。それこそが、非常時を乗りきる決め手だと重賢は考えたそうです。熊本藩をドン底からよみがえらせた名君、それに従った異風者藩士たちの改革断行は、明治維新よりも100年早い藩政改革だったそうです。
また、磯田さんに拠れば、江戸時代の藩主は延べで3,000人くらいいたようです。(300藩×10代)その中で今も世に語り継がれるのはこの二人に+数人ということですから、稀有な存在であったことは事実ですね。それにしても、細川佳代子さん、上杉邦憲さんの見た目に加えて、その語り口調に醸し出される品格に、厳かさを感じたのでありました。
細川重賢(しげかた、享保 5年12月26日 (1721年 1月23日 )-天明 5年10月26日 (1785年 11月27日 ))肥後 熊本藩 6代藩主。号は銀台。官位は従四位下、越中守、左近衛権少将、侍従。紀州藩 第9代藩主・徳川治貞 と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。正室は久我通兄 の娘。子に治年 、娘(細川興徳 室)。
上杉鷹山(ようざん、宝暦 元年7月20日 (1751年 9月9日 )-文政 5年3月11日 (1822年 4月2日 ))は江戸時代 中期の大名 。出羽国 米沢藩 の第9代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。領地返上寸前の米沢藩 再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱 (いみな)は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名。
上杉鷹山候も、(宮崎県)旧日向国
高鍋藩
主・秋月種美
の次男だと知ると、九州男児じゃないかと、少し身近に感じる次第です。
細川佳代子、「上智大学英文科卒業。日本企業の欧州駐在員として渡欧。その後、細川護熙氏と結婚、政治活動を支える。その一方、ボランティア活動に積極的に取り組み、2005年2月に開催された「第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会」会長を務める。現在はスペシャルオリンピックスのムーブメントを広げるため、全国で講演活動などを行っている」。
上杉邦憲(くにのり、1943年
4月18日
-)は、「山形県
出身の宇宙工学者
。専門は、宇宙航行力学
、システム工学
。上杉隆憲
の子。母は徳川氏
17代当主・家正
次女の敏子。米沢藩
上杉氏
の第16代目当主にあたる。曾祖父・茂憲
は最後の米沢藩主。本職の宇宙科学
の分野で活躍する一方、上杉謙信
から数えて17代目の子孫ということもあり上杉氏関連の講演会の講師を務めていることでも知られている」。
磯田道史(みちふみ、1970年
-)は、「歴史学者
。2004年より茨城大学
人文学部助教授
。専門は日本近世史
。岡山県
岡山市
出身。2002年、慶應義塾大学
大学院
文学研究科博士課程修了。慶應義塾大学・宇都宮大学
などの非常勤講師
を経て現職。1998年から2003年まで日本学術振興会
特別研究員。2003年の著作『武士の家計簿』で第2回新潮ドキュメント賞
を受賞した」。