昨日のニュースで次の記事が目に留まりました。

<A級戦犯無罪主張のパル判事遺族と面会へ 安倍首相>

 安倍首相は今月下旬にインドを訪れる際、極東国際軍事裁判(東京裁判)のパル判事の遺族と23日に面会する方向で調整していることがわかった。パル氏は連合国側判事として唯一、東条英機元首相らA級戦犯全員の無罪を主張したことで知られている。

 政府関係者によると、パル氏の遺族との面会は首相の強い希望だという。首相は東京裁判について国会答弁などで「国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」と述べるにとどめている。ただ、かつてはそのあり方に疑問を唱える立場をとっており、波紋を呼ぶ可能性がある。(asahi,com

東京裁判については、その正当性について意見の分かれるところではありますが、サンフランシスコ条約で国家として受け入れていることを前提に置けば、安倍首相の「立場」は理解できます。では、パール判事とはどういう方だったのでしょうか?東京裁判での彼の「立場」をウィキペディアから引用します。



パル判事

ラダ・ビノード・パル(Radha Binod Pal,1886 1月27 -1967 1月10 )は、インド の法学者。極東国際軍事裁判 (東京裁判)において判事 を務め、同裁判の11人の判事の中で、唯一被告人達全員の無罪を主張した。


パルは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。よく誤解されがちだが、これはあくまでも“裁判が無効ならば、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものであり、日本の戦争責任そのものを否定するものではない。


よって、“パル判事は親日 家故に日本に有利な主張をした”という定説は事実誤認であり、またパル判事自身もそのことで日本に感謝される筋合いは無いという旨の弁明を行っている。その一方、パルが中国側に対する理解の欠如や柳条湖事件 等の経緯および当時の日本の国内情勢に関する事実誤認があること、またパルは「インド代表」であったにも関わらず、当時のネルー 首相が意見書に対して公式書簡等で「インド政府を代表する意見ではない」と不快感を示していたこともまた指摘されている。


これは大変冷静な記述になっていますね。この当時の状況に思いを馳せれば、パル判事の立場もネルー首相の立場も理解できるというものです。ただ、日本人としては次のような「立場」にあった方が、こういう本を書かれていることを知っていることは、大変大事なことだと思います。



日本人に誤りたい

日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔 モルデカイ・モーゼ 著、久保田 政男 訳)

 もともと、われわれが犯した誤ちはごく単純そのものの誤ちだったのだ。しかるに、この小さな誤ちの及ぼした影響は想像以上に大きかった。それは、戦前まで日本が世界に冠絶した類いまれなものとして誇っていた数々のものを破壊してしまう結果となったのであった。

 このことを知るに及んで、われわれの心は痛むのである。しかも、その日本が戦前もっていた類い稀れな長所というものがわれわユダヤ民族は、西洋人にない高尚な理想を常に頭に描いていたのである。しかし日本の皆様もご存知のように、ユダヤ民族は永い永い迫害の悲しい歴史のなかではこれら理想を具現化する余裕など全くなく、ただどうして生命の安全をまっとうするかということに心血を注ぐが精いっぱいであった。希二次大戦終始まではわれわれの解放のための闘いは絶えず続いていたのであり、そのような理想を追求する余裕は残念ながらなかったのであった。

 しかるに第二次大戦後、日本が占領政策の結果大幅に改革された結果初めて、戦前の日本にわれわれの理想とするものが多々実在したことを発見したのであった。・・・しかし、日本の戦後史は、われわれユダヤ人が過去の過ちを真摯な態度で告白しなければ解明できない性質のものなのである。私は、今後末永く日本人と親しく友好関係を保たせていただきたいと心から願うものとして、日本の戦後の歴史的非運続性、いいかえれば何故戦前の理想的な数々の長所が失われたのか、そのために真の日本歴史の構築を阻まれている日本人の深い苦悩からの脱出をお助けするために、これら病巣のルーツを解明する作業を進めたいと思うのである。それはまた同時に将来われわれユダヤ民族の理想を追求するときにも再び大きな助けとなるであろうと信ずるからである。(「はしがき」より抜粋)

モルデカイ・モーゼ(Mordecai Moses);1907年、ウクライナのオデッサ生まれ。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。レーニン没後、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリネックと親しかった。

ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。独ソ不可侵条約が結ばれるや、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。「サッスーン財閥」の顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画した。戦後十数回来日、現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという。