長崎に帰ってからは「時」を待った。


「時」が来たら、スムーズに離婚できると思っていた(確信)


その為に私が成すべき事は「必死な祈り」と、ただひたすら忍耐する事とそれを愛した条件にする事だった。


義実家のご先祖の事も意識した。


義実家のご先祖が「もう善し」と言ってくれた時、この家を出る事が出来、地獄のような生活から解放されると確信していた。


彼は私の離婚の意志が固いと知ると、私の実家の両親に、私が統一教会に入って自分のお金を教会に使っている等と散々話し離婚はしたくないと訴えたようだ。


年末に両親に呼ばれた。


こんこんと説教させた。私は一言も弁解しなかった。


年が開け離婚できる日が近いのを感じた。


離婚届けの用紙に私の署名捺印をして名古屋に送った。


彼から返信が来なかったので、電話で「離婚届けを送って貰えないなら裁判させてもらいます」と伝えたら数日後に届いた。


その時は展示会中で、本部長に届いた事を話すと、すぐに市役所に出して来て下さいと言われたが、保証人が二人いる事を伝えると

「婦人部長サインしてください」と言われ、一人は婦人部長で、後一人いる事を伝えると「私でも良いのでしょう」とサインする間際に組織部長が部屋に入って来て「あっ、組織部長◯◯さんの離婚届けにサインしてください」と言われた。


組織部長は簡単にサインする事は出来ないと思われたのでしょう。当時は離婚は絶対駄目だと言われていた時代だったから。


その中での離婚だったから、それはそれは婦人達からは、直接私に言う人はいなかったが、相当いろんな事を言われていた。(直接私に言えば良いものを・・・)