ヒョードル選手の試合を、最初から不安な気持ちで見るのは初めてでした。

常に圧倒的な強さを見せつけ、訪れたピンチでさえも、精神力の強さを見せつける舞台へと変えてしまうヒョードル選手はMMA界に君臨し続けていた王者でした。

あまりの強さ故に、ヒョードル選手の試合が始まると、「どのようにヒョードル選手が勝つのだろう?」。関心はその一点に集約されていることが、ほとんどでした。

負ける気配を微塵も醸し出さなかった王者に、負けることを心配することは、ただの取り越し苦労でしかありません。

今となっては、色々な意見が出ていると思いますが、ヒョードル選手がコンスタントに試合をしていたときは、それほどまでに突出していた存在であったと思います。

PRIDE時代にヘビー級の王者としてつけられた"60億分の1"という言葉がヒョードル選手の形容詞となっていますが、この言葉をこれほどまでに体現し続けてきたファイターはMMA史上ヒョードル選手しかいなかったと思います。

60億分の1といって良い程、生物レベルで他のファイターとは一線を画していた存在でした。


2010年6月、ヒョードル選手の事実上のMMA初黒星。

アントニオ・シウバ選手との試合開始早々から不安な気持ちだったのは、このヴェウドゥム選手との対戦で初黒星がついたのが最大の理由だったことは言うに及びません。

ただヴェウドゥム選手に負けた直後は、「たった一回くらいたまたま負けることは誰だってある。」、「一回負けたからといってどうかなってしまうファイターじゃない。」ということで自身納得していました。

次戦以降はいつも通り、また勝ってくれるはずだと。

それは、「また負けてしまったらどうしよう。」という不安の裏返しだったのかもしれません。

今回のアントニオ・シウバ選手との試合で、ヒョードル選手はいつもとは違う曲で入場してきました。私の記憶ですと、ヒョードル選手が入場曲を変えたのは初めてです。そんなところも気になりながら、アントニオ・シウバ選手との試合が始まりました。

シウバ選手との体格差は一目瞭然。

不安もありながらも、「何とかヒョードル選手、勝ってくれ!」という想いで試合を観ていました。

その想いが2Rで「何とかヒョードル選手、負けないでくれ!」に変わり、最後は言葉が出ませんでした。

2R終了時点でのドクターストップ。

ヒョードル選手は衰えたという意見と、ヒョードル選手がMMAの進化についていけなくなったという意見が出ています。

私は前者の意見を支持します。

確かにMMAの技術は進化していますが、シウバ選手の戦いぶりに、その進化を表すような新しいものは見られませんでした。

ヒョードル選手の衰えは、傍から観ていると気付きにくい、本人にとっても誤差程度のものなのかもしれません。ただ、トップ選手になってくると、この誤差程度のものが致命傷になるのでしょう。

パワー、スピード、タイミングの計り方などに、ヒョードル選手にとって僅かですが大きな衰えがあったのでしょう。

前回のヴェウドゥム選手との試合でも、ヒョードル選手のイメージの中では、ダウンを奪った後にパウンドで仕留められるか、三角締めを外して追撃するという動きが出来上がっていたかもしれません。

ただ、ヒョードル選手自身のイメージと実際の体の動きなどに若干の誤差があり、あのような結果になってしまったのだと思います。

今回の試合でもシウバ選手は、ヒョードル選手のことをよく研究していましたが、ヒョードル選手が研究されることなど毎度のことだと思います。

ピーク時のヒョードル選手は、相手が研究してきたものを凌駕する強さを発揮していたのでしょう。今回のヒョードル選手はシウバ選手の想定内だったか、それ以下のヒョードル選手であったことを意味すると思います。

ただ、ヒョードル選手のメンタルだけは衰えていなかったと思います。金網を背にして体格で上回るシウバ選手相手に打ち合うシーンや、シウバ選手のパウンドや肩固めに耐え、最後は逆にアキレス腱固めを狙ったシーン。

ヒョードル選手の気持ちは最後まで折れること無く、冷静でした。


そのヒョードル選手が試合後に冷静に口にした“引退”という言葉。

試合前から予期していた部分がありつつも、今回の試合でそういう時期だと確認し、諭したのだと思います。

今がまさに、そのタイミングなのかもしれません。


今回負けてしまいましたが、それでも私はヒョードル選手が好きです。

2000年代のMMAの歴史の中で、ここまで“最強”という幻想を抱かせ、それを証明してきたファイターはいないのですから。

そして、その強さのみならず、謙虚な人間性にも魅了されていたファンも多かったと思います。

これからのMMAが続いていく中で、エメリヤーエンコ・ヒョードルという人類最強の王者がいたことは、永遠に語り継がれるでしょう。