私は茶道を続けています。
裏千家です。
地元で教わっているのですが、週1回のお稽古で、
かれこれ6年目に入りました。
最初の頃は、おもてなしの心遣いから計算し尽くされた動作の美学に魅了されて、
毎回、知りたいことや、何故そうなったのかを尋ねながらお稽古してもらっていました。
なので、一言でいえば「ぎこちない」所作でした。
それも何年も…
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昨年、結婚を機に転職したこともあって、
月3回は行けていたお稽古も、1回のみということが続いていました。
毎回が久しぶりなのですが、面白いことに、
頭で考えるよりも、所作が先に出てくるのです。
そして、所作が間違っていると、そこで「あれ?」と違和感を覚えて、誤りに気づくことができるのです。
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お稽古のあと、先生はいつも励ましてくださいます。
そこで、私は「これまでのようにお稽古に続けて出られなくて、なんだか寂しいです。」と打ち明けたところ、こんな話をして下さいました。
「私が(茶道の)教室を始めたのは、次男が3歳の時だった。生徒さんも居ないけど、でもやりたい、けれど育児や家事もあるし、どうしようかなって…その繰り返しだったの。
そうしたらね、夫が、こう言ってくれたの。
『だからこそ始めたらいいんだ。』ってね。
『でも、生徒さんが居ないし』と言うと、
『だったら俺が生徒になる。とにかく始めなければ、生徒さんも集まらないじゃないか。まずは、やってみようじゃないか』って。
それで、覚悟みたいのが出来て、今があるのよ。
人生なんだし、暮らしもあるから、お茶から離れてしまう時期も当然あるけれど、
細く長く、続けていれば、それでいいのよ。
大丈夫だから、来れるときに来なさい。
いつでもどうぞ、ですよ。」
この話をお聞きした時、いわゆるガットフィーリング、ハラで分かるといった感覚がありました。
私にとって、オーラソーマと共に本質を生きることは、ある部分では当たり前のことではあるけれど、どこかで日常生活、マインド的視点では「できないかもしれない」とか、
「やると決めたけれど、できなかったらどうしよう」とついつい考えすぎてしまい、
やる前から諦めてしまう、そんな心のクセがありました。
ですが、何故、お茶を続けてこれたのか?と振り返ると、そこには「ただ好きだったから」、それしかありませんでした。
興味を持ち、見学に行き、知識を得て、お稽古に行く。
そこに意図や他意はありません。
私はオーラソーマに関して、スパイラル思考が常にありました。
オーラソーマを広げたい。
もっと知りたい。
だって、その方がみんなの役に立つ!
でも、同時に起こる不安。
「そんなことってできる?」
「ただの夢でしょう?」
で、諦める。
そうではなくて、
「ただ好きだから」楽しみたい。
誰かのため、ではなくてもいい。
のめり込むような距離感ではなく、でも1歩ずつ着実に、
暮らしのそこかしこで活きているお茶の所作のように、
オーラソーマを知り、身につけていけたら…
細く長く…
今は、そんな気持ちでいます。