この話はフィクションです。登場する人物・団体は存在しません。
「おい、富田。明日、みんなで寶田さん落とさへん?」
義明は嗤った。彼は防熱エプロンと手袋をつけて、劣化したフライ用油を角缶に流し込む作業をしていた。
「嫌っすよ。だいたい、あの人何歳なんすか。怖いじゃないですか、一歩間違えたら秋葉原事件みたいな人ですよ」
「今年で30や」
背丈が高く、顔立ちの良い富田は店の女の子たちの憧れであった。その意味では、彼がアメリカンハウスの一番の華である、雪子と恋仲であったというのもごく自然なことだったのかもしれない。
「恨まれるのは、嫌っす」
富田は、高い背を少し猫背気味にしながら呟いた。
富田と雪子は、恋仲であるとはいっても、それを殊更に店の連中に示すような素振りはみせなかった。勤務時間さえ、なるべく別々の時間帯を選んでいたようだ。二人は、あくまでも店の外で、逢瀬を重ねたのであろう。
厨房奥のホワイトボードには、油性マジックで書かれた寶田のメッセージが残っていた。誰かが頑張って消そうとしたのか、文字は部分的に擦り切れていたが、べったりと黒い油性インキがこびり付いていた。
(ハンバーグのことなんて忘れて…)
私は妙にそのフレーズが気に入り、油やドミグラスソースのべっとりついた皿を洗いながら、胸の中で何度も反芻した。あの寶田も、恋心を抱くようなことがあるのだろうか。そんな残酷な疑念に駆られながら、しつこい油汚れを擦り続けた。
「寶田さん、グラサンに革ジャン着てくるんちゃう?なァ、岡崎くん」
義明はにやつきながら、私を小突いた。
「あんなに、楽しみにしてはんねやから」
そう言うと彼は太くて大きな腕で、どす黒い廃棄油がたっぷり入った角缶を、奥の方へと運んでいった。屈強な背中が、閉店間際の夜闇に消えていくのが見えた。
「あの棄てる油は、どないするんですか?」
私は気まずい沈黙を避けるため、ただ思いつきで富田にたずねた。
「いや、僕もよう知らんわ」
なぜそんなことを聞くんだという目を一瞬、彼は私に向けたのだった。
(つづく)