この話はフィクションです。登場する人物•団体は存在しません。
私が寶田と初めて出会ったのは、たしか、あの日からちょうど二ヶ月くらい前だろうか。ちょうど大学に入学した年の7月だったと思う。私は大阪のミナミにあるアメリカンハウスという洋食屋でアルバイトをしていた。仕事を始めたのは梅雨真っ只中の6月半ばだったから、事件の日、私もまだ新入りで、店内に戯れ合えるほどに仲の良い人間がいたかといえば、そうでもない。だが今から思えば、それがゆえに、自分の中での寶田の意味というものが、これほどまでにずしりと重くなってしまったのかもしれない。今からする話は、この寶田という男の話である。
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「ホワイトボードに油性ペンで書いた奴誰や」
厨房の奥から義明の低い声がした。
「寶田って書いてたけど」
彼は真っ黒に日焼けした肌から白い歯を意地悪に覗かせながら、ニヤリとした。
「僕です、すみませんでした」
男はすぐに返事をした。栗のようにずんぐりした頭と、腫れぼったい頬、薄汚れた眼鏡をしたこの男が、寶田である。何よりもおかしかったのが、どうもこの男は歳が30を過ぎているように見えることであった。たいていの店員は、高校か大学、専門学校を卒業するまでに店を辞めていく。彼は日中の勤務がほとんどで、私の出勤していた深夜に顔を出すことはほとんどない。この日、私は初めて寶田を見たが、後から聞けば、珍しく彼が深夜出勤した日だったそうだ。
厨房の奥に据えられたホワイトボードを見ると、
”水曜日は琵琶湖です!ハンバーグのことなんて忘れてBBQ思いっきり楽しみましょう!寶田”
と油性マジックで書かれていた。それまでにも時々、バーベキューのことが、寶田の名前でホワイトボードに書かれていることがあった。私は、それだけを見ては、寶田という人物を勝手に軟派な輩だと想像していたが、本人を目にして全くの見当違いだったことが分かった。栗のようにずんぐりした、30過ぎの、冴えない男であった。
琵琶湖のバーベキューは店の恒例行事で、形式上は店員であれば全員誘われたが、実際には、当時の私くらいの年代の男女のためのちょっとした社交場である。寶田のような人物は、自ら辞退するだろうと内心皆が考えていた。
ただ当時の私は店に入ったばかりで、そんなことには頭が回らなかった。だから私にとっては寳田など、単なるひとりの同僚に過ぎなかった。もしかするとそのことによって、寶田の哀しいほどに鋭敏になった嗅覚が、私という人物の無害さを嗅ぎつけたのかもしれない。
(つづく)