みなさんにとって今回のゴールデンウィークはどんなものだったでしょうか。家でゆっくり過ごしたり、買い物したり、一日中ゲームしてたという人もいたかもしれません。案外、毎日予定があって忙しかった人もいるかもしれないですね。私の友人はい週間早い母の日のお祝いをしたそうです。感謝することって忘れがちなので、その友人は偉いなぁって思いました。

まず聖書をお読みいたします。場所はルカによる福音書1711節から19節です。新共同訳聖書の新約聖書142ページです

17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

みなさんは「サマリヤ人」が出てくる物語と言われると どのような物語を思い起こすでしょうか。おそらく大体の方は「良きサマリヤ人」の話を思い起こすのではないかと思います。有名ですし、よく話の中でも紹介されるのではないかと思います。そして、ヨハネの福音書に出てくる井戸の前でイエス様が待っておられた時に出会ったサマリヤの女の人を思い起こした方もいるかもしれません。そして、今朝私どもに与えられております、このルカによる福音書17章に語られている話が当てはまるところではないかと思います。この聖書の物語は私にとっては印象の低い話でした。「よきサマリヤ人」の話は先ほども言いましたが良く知られている物語で、教会に来てない方でも知っているという方もいるような話です。それに対して、ここに出てくるこのサマリヤ人の物語は、さらっと流して読んでしまいそうな物語です。みなさんの中にもそのように思っていたり、印象に残っていないとお感じの方もいらっしゃるかもしれません。サマリヤ人といったら、どうしたって「良きサマリヤ人」を思い出し、あ、

そうだもう一人いたと、井戸のほとりの女を思い出すという感じじゃないかなぁって思います。ここに登場する男を思い出すのは、そのあとといった感じじゃないでしょうか。なぜでしょう。その理由として一つはっきりしていることは「よきサマリヤ人」の物語の方が分かりやすいですし、心にまっすぐ入ってきます。すぐに心に刻まれますし、それだけ気に入った話になる、愛の話です。何といっても愛を実践したひとりですし、私たちにとって受け入れやすく心に留まる物語なのではないでしょうか。では、どうしてこの「もう一人のサマリヤ人」の物語は心に残りにくいのでしょうか。きっとここに出てくるサマリヤ人は愛を実践した人ではなく、ただ自分の病を癒されただけの人、そして主イエスのところへ喜んで帰ってきただけの話と感じるからではないでしょうか。私はそのように読んでしまっていました。しかし、私はさくじつ、べスパーで奉仕に来て下さったアジアと共にいきる会の海外ボランティアでの体験からこの物語が心に刻まれる体験をしました。私にとってこの海外ボランティアは、行きたくないと思っているもので、いつもこれで最後だ。もう二度と来ないぞ。と思いつつ4年間ずっと参加している活動です。なぜ行きたくないか。それは単純に環境が悪いからです。乾期で水不足。蛇口をひねっても水が出てこない。暑いと思ってもクーラーはなく、ジリジリ照りつける太陽に肌の弱い私はやけどを負ってしまいます。寝るときも寝袋で地面に寝るわけです。ふかふかのベッドがどんなにありがたいかわかります。お風呂に入るといっても近くの川だったり、水だったり、お湯を使えるなんて贅沢なことです。川の水も北浦湖のような水です。入りたいと思いますか。でもそれしかないんです。体を洗うことが気持いい事なんだと、洗わない気持ち悪さに気付けるのも確かです。生活の面では本当に日本に生まれたことをありがたく感じます。そした、いやだいやだと言いながらも毎年、参加していることにもやはり理由があります。私は昨年まで神学科。牧師になるための晩強をしていました。この神学科は学校の中でも他の学生たちのいる校舎から離れており、寮生活をしていても、ほとんど他の学科の人と話せません。昨年のモニター武田さんも女と縁がないと言っていたそうですが、それどころか、男のことだってあまり関われなかったり、入学式と卒業式しか会わないような人さえいます。そんな関わりの少ない私にとってこの海外ボランティアの期間が一番いろんな人と仲良くなれるチャンスなのです。海外に行き限られた場所で日本人も自分たちしかいないということは、逃げる場所もないし、いやでも関わらないといけなくなります。そして、いやだと思う人の意外な一面。知らなかった人のキャラクターを知ることによって、日本で生活している以上に仲良くなれるのです。年齢も男と女の壁もなく仲良くなれる機会ってなかなかないのではないかと思います。また、現地の人との交わりは本当に心を温められるものです。ある小説家が

―そして僕らの生活は豊かになった。しかし、心は貧しくなっていった。―

と言っていたことを思い出します。ものは充実していて欲しいものは手に入る日本ですが、人と人との関わりはだんだん減っていっているのかもしれません。しかし、現地の人たちはものがなくても心は温かです。子供たちもゲームはなくても、外で泥んこになりながら遊んでいます。目をキラキラさせながら、言葉の通じない私たちに一生懸命話しかけながら一緒に遊んでくれる子供たちの純粋さは、自分の心まできれいにしてくれるような気がします。そして、いやだなって思う生活面での環境の悪さを感じさせないようにしてしまいます。後から振り返ればよくそんなことできたなぁ生活していたよなぁって思うんですけど、本当にこのボランティアの数週間で、得られる心の充電は、私にとって力の源になっているものです。そんな現地の子供の笑顔を守るために活動している日本人の人たちがいます。その代表の方との出会いによって私は、今朝の聖書の物語が印象強く心に残ったのです。

 みなさんはバーンロムサイという名前を聞いたことがありますか。

鎌倉にもお店がありますし、ユナイテッドアローズやパルコなどの店にも服や雑貨が置かれているので、知っている人もいるかもしれないのですが、このバーンロムサイとは両親をエイズで亡くし、自分たちもHIVに母子感染した孤児たちの生活施設です。ジョルジオ アルマーニ ジャパン社の資金協力を得て、199912月にタイ北部のチェンマイ市郊外に開設されました。20103月現在、6歳から18歳まで31名の子ども達が暮しています。設立当初からバーンロムサイを単なる孤児院ではなく、「大きな家族」にしたいと考え、大人が管理しやすいシステムをとらずに、子どもが子どもらしく暮せることを基本に運営してきました。広々とした緑豊かな敷地内で、衛生環境を整え、日々の健康管理、バランスの取れた食事を生活の基本におき、タイ人スタッフや子どもたちと良く話し合い、試行錯誤を繰り返しながら今年で11年目を迎えようとしているそうです。北浦三育と似ているなぁと何となく思いました。生徒が自立していてしっかりしているこの中学はすごいと思います。話を戻しますが

この代表の方がこんな文章を掲載されていました。バーンロムサイに来るまでに捨てられた子、両親の死、差別や偏見、虐待など辛い体験をした子どもたちですが、今ではここを自分たちの「家」と感じ、安心して生活しています。31人の子どもたちには31の個性と可能性があります。多くを望むわけではありませんが、人を思いやれる気持ちの良い大人に育ってほしい、そしてできることなら自分が得意とすることで、将来生計を立ててもらいたい。そんな「親心」から、バーンロムサイでは勉強だけでなく、子どもたちがいろいろな体験ができるよう様々な取り組みも行っています。「絵を描くこと」「陶芸をすること」「写真や映像を撮ること」「伝統的なダンス」「演劇」「裁縫」「料理」「水泳」「サッカー」「コンピューター」などはそんな活動の一部で、これらはおもにタイ人や日本人のボランティアによって進められています。バーンロムサイの子どもたちが無事に成長し、いつの日か社会に出る時に、そうした体験や技術が役に立ってくれればと願うばかりです。

また開設当初はHIV/エイズに対する偏見や差別が根強く、せっかく入学した村の小学校を退学させられる苦い経験もありました。しかし現在ではある企業からの寄付で建てられた図書館やコンピュータルームに村の子どもたちが来るようになり、エイズや麻薬、食事や環境の啓発活動、合同運動会の開催などバーンロムサイが少しずつ地域社会に溶け込み、さらに頼りにされるようにもなってきました。 しかし、エイズの発症を免れたとしても、子どもたちが孤児であることに変わりはありません。またHIVウイルスが消滅する新薬が開発されない限り、彼らは一生、抗HIV剤を飲み続けなければいけないのです。HIV母子感染の第一世代であるバーンロムサイの子どもたち。これから必ず起こる薬への耐性、副作用、社会での差別や偏見、恋愛や結婚の問題、背負った運命とどう折り合いをつけて生きてゆくのかなど、前例のない多くの問題に直面していくことでしょう。その壁に立ち向かい乗り越えてゆけるだけの力を身につけるためにも、子どもたちを心身共に自立させることが、今、そしてこれからのバーンロムサイの大きな課題です。子どもたち全員が勉強が得意なわけではありません。勉強の好きな子どもには高等教育を受けさせ、また勉強の苦手な子どもには何か手に職をつけられるようにと、中学、高校と進学してゆくなか、子どもの将来にかかわる大切な時期を迎えています。

デザインや縫製をする子、保母や、バーンロムサイのオフィスで働きたい子が現れるかもしれません。病気の発症を抑えれば、子どもたちには可能性と未来がある。そう確信した時からバーンロムサイは大きな転換期を迎え、新しいステップに踏み出しました。

 HIVに感染していても、生みの親を知らずに育っても、明るく楽しい人生が送れる。たとえ血がつながっていなくても、温かい「家族」になれる。バーンロムサイでの暮らしを通して、子どもたちがそんなことを感じ取ってくれればと願っています。そして自分たちはいかに多くの人々に支えられて、生きてきたかを理解し、その感謝の思いを周囲に返していける大人に成長してほしいと思います。
バーンロムサイ代表:名取 美和

という文章です。私はこの名取さんにボランティアでタイに行った時に直接お会いし、話す事が出来ました。本当にいきいきとした方で、目を輝かせて子供たちの将来を考えていらっしゃる姿に感動しました。たまたま、観光で行ったタイで、エイズで親を亡くし、子ども自身も病気によって死んでいく現実を知り、何とかしたいと思ったときに、施設をつくれるような話が舞い込んできて、今に至っていると苦労も楽しいことであるかのように語るその姿、また、偶然とは感じれないような話を聞いている中で

自分には力があり、才能もあり、将来のために他にも道があったかもしれない。それなのにこのタイの子供たちのために、大切なものをみんななげうって献身して働いていく姿、そのような使命が与えられてると感謝しながら生きておられる姿に、比べて私は神様を伝える立場でありながら、受けてばかりで感謝していない、ぐちってばかりであることに気付きました。誰かのためになるとは、このようなことなんだなと改めて思いました。良きサマリヤ人のように奉仕するだけではなく、自分も受けていることに気付き感謝する心を持たなければと感じる体験でした。

 この聖書の物語はイエスがご自分が十字架にかかるためにエルサレムへと向かう旅の話です。その途中がリラやとサマリヤの間を通られました。このガリラヤとサマリヤはどちらもユダヤ人の住んでいる場所ですが、それまでの歴史的、信仰的な対立によって憎しみがお互いに差別の谷をつくっていました。サマリヤ人とユダヤ人との対立は、本来同じ血が流れている者同士の対立であるだけにかえって厳しいものでした。兄弟で憎しみ合う時ほど苦しいあらそいとなるようです。かつては同じ信仰、同じ血を分けたものでありましたが、サマリヤ地方の人たちは他の国に支配されていたときに、他の民族が各地から移民してきて混じり合ってできた子孫、混血の人種となったことでユダヤ人は神に選ばれた人種ではないと決めつけ差別し、お互いの中が悪くなっていったのでした。そのため礼拝する場所や守るべき律法も変わっていってしまいました。そんな対立のはざまをイエスが歩いていかれた時、「ある村」がありました。そして、その村には10人の思い皮膚病を患った人たちがいました。おそらくこの村は見捨てられた村だったと思います。この思い皮膚病を患った人たちは神から呪われている病気であると偏見の目で見られ差別されていたからです。そのために住んでいた場所を追われ、住む場所を求めてこのサマリヤとガリラヤのはざまにある村に一緒になって肩を寄せ合って生きていたのではないかと思います。またこの十人は全部がガリラヤの人ではなく少なくても一人はサマリヤの人がいます。それまで争い合っていたものなのに、同じような病気、同じように差別され住む場所を失ったという同じ苦しみを分け合いながら一緒に生活しています。同じ境遇だと連帯感が生まれるのでしょう。イエスが通り過ぎようとされた時、この10人の病人が出迎え遠くの方から立ち止まったまま、イエスに「わたしをあわれんでください」と声をかけました。なぜ遠くからだったかと言うと、風が重い病気の人から健康な人のほうに吹いているときには少なくても45メートル離れて立たなければいけないという決まりがあったからです。これを聞いたイエスはすぐその場所で癒されず祭司のところに行って体を見せなさいと言われます。10人が患っていた思い皮膚病は神に呪われた病気であるとされていましたから、治ったかを判断するのは神に仕える祭司であると聖書にも定められていたからです。祭司は神殿で働いていますから神殿のあるエルサレムまで行かなければいけなかったと思います。サマリヤ人はサマリヤ人の神殿がありますからその神殿まで行かなければいけません。すぐに見せにいける距離ではなかったと思います。この10人はイエスの言葉を信じて歩き始めています。疑ったりしてしまいそうですけど、イエスの言葉に全てをかけて歩きだしたのです。健全な人の近くを通る時、彼らは「自分はけがれています。近づかないでください」と大きな声で言いながら歩かなければなりませんでした。それを考えたら惨めな気持ちにもなったかもしれません。でもイエスを信じて進んだのです。そのようにして歩き始めた道の途中で自分がいやされていることに気付きます。そして、自分がいやされたことを知った一人が、大声で神をほめたたえながら帰ってきます。他の9人も癒されたことに気が付いていたに違いありません。しかし、9人とこのひとりの間に、違った一つの判断がありました。早く祭司に見せて治ったことを証明してもらいたい、そうしないと世間で認めてもらえない。9人はそう思ったのでしょう。治ったことが証明されてからイエスのもとに帰っても遅くはないと思ったかもしれません。このサマリヤ人だけが自分の体のきよめを祭司に確認してもらうよりも何よりも最優先にしなければいけないことがあると思ったのです。それが神をほめたたえることでありました。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝したのです。この光景を想像できますか?? 後で何かお礼をしにいこうというものですむかもしれないのに、このサマリヤの男はイエスの愛のわざの背後に神を見たのです。神の恵みを見たのです。ここに神が生きて働いておられるのです。そしてそれにまっすぐ応えている人がいるのです。しかし、この9人のように人は一度欲しいものを手に入れるとなかなか戻ってこないし、忘れてしまうものかもしれません。私たちが感謝を忘れてがちな3つの存在があります。一つは親です。たった一週間ほったらかしにされても死んでしまう時期が私たちにはあります。ひとり立ちするまで時間がかかるのが人間です。その支えとなってくれている親に対して、それが当り前のように感じて感謝しなくなってしまうのではないでしょうか。明日は母の日ですね。感謝を伝えてあげましょう。友人はこのゴールデンウィークに両親の結婚記念日を家族で祝ったと教えてくれました。それを聞いて心が温まりました。親があるから私がいるんですよね。

二つめは友人です。友人の存在って寮生活してたら、より一層大切に感じますよね。一緒に笑い、悲しい時一緒に泣いてくれたり話を聞いてくれたり、励ましてくれたり。そのひとつひとつを私たちは日々の忙しさの中で忘れてしまいます。友人、教職員の先生は、私たちのために大きなことをしてくれます。生徒のころには分かりませんでしたが、モニターになって教師が生徒にどれだけ愛をそそいでいるのか知ることが出来ました。今、振り返って感謝してなかったなぁっておもいます。

三つめは神様に対して感謝を忘れてしまいます。なにか困ったことにあうと必死になって祈るのに、問題が解決すると祈ってきたことも忘れていつも通りの生活にもどってしまう。お願いのお祈りしても感謝のお祈りをしないという部分が私にはあります。最近、祈っている中でお願いの多いことに気付きました。そして、このサマリヤ人は自分の願いが聞き入れられたことに感謝しています。

 この恵みに溢れ、賛美に溢れてイエスの足元にひれ伏しております男に目を留めつつ、主イエスは言われます。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」サマリヤの人々はもう外国人としか呼びようがない関係にまでなってます。それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

と言われます。あなたの信仰と言われている信仰とはいったい何でしょうか。それは私たちひとりひとりの神に対する信じ方。どのように信じ、そのことを通してどのように行動するかという姿です。

この人は立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。と言われ立って行きます。ただイエスのもとに留まるのではなく出ていきます。きっとそのあとも神をほめる歌を歌い続けたのではないでしょうか。

詩編の10312節を読みたいと思います。わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

私たちはすぐに感謝できなくなってしまいます。不平不満を口にしてしまいます。日々の生活の中で 楽しいこともあればそれを吹き消してしまう悲しいことも次々おこります。耐えられないと思うこともあるかもしれません。しかしその全部が片付いてはじめて感謝できるというわけでもないのではないでしょうか。むしろどんな耐えられないこともイエス・キリストの恵みがあることを信じ希望を持って歩みましょう

 主はいわれます。私の恵みはあなたに付き添って離れることがない。

たって出て行きなさい。と

 私たちは一人ではありません 家族 友人 そして神様に支えられて生きているのです。そのことに感謝しつつ歩んでいきましょう。

祈り