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ASKAの「本日も恋愛小説」

日常と非日常のはざまで生きる痛女(イタジョ)の
気づいたことや伝えたいこと。
「blogぢゃなくて友達に話せばいーじゃん」ええ、友達いないんです(泣

 

このところ、本を読むようになりました。

 

私が本を読んでいたのは、実に18までで、ただ、あらゆる(きちんとした)本を読んでいたため、大学の一般教養のレポートレベルなら、何も見なくても書けてしまったりしました。

なんていうんでしょうか?

学校の勉強にはあまり興味を示さなかったけれど、私は自分を教育しようとしていたんです。

当時は語学がてんで出来なかったので、すべて日本語で読んでいましたけれど、古今東西の哲学・形而上学・数学・化学・社会学・文学など、いろいろな興味のままに、学校の図書館(とても良い図書館でした)で長い時間を過ごし、自宅でも(授業中でも)読んでいました。

そして、さまざまな「役に立たない知識」を詰め込み(そんなに記憶力はよくないけれど)、「時代や場所とはいささかズレた意識」を育みました。

あまり生活や現実には興味がなくて、レタスとキャベツがどちらか曖昧だったり、生まれ育った地方の方言がしゃべれなかったり、自分が現実のなかで生きていけるという自信はまったく無かった、頃ですね。(今でも無いのかもしれないけど)

 

そのときの「貯蓄」で食いつなぐように長い間生きてきましたが、さすがにそれではまずいかなと思ったので(時代も違いますし:汗;)、この夏から「読書を再開」したのです。

 

そんななかで、確かにそうなんだけど、言われるまで(迂闊にも)気がつかなかったことを二つ書こうと思います。(要らない前置き、ナガッ!)

 

まず、錬金術。

 

錬金術って、そのためにとてつもなく多くの人が生き、死んでいった技術です。ちょっと考えられないくらい。

鉄や銅をどんな配合で、どんなふうにか溶かしたり叩いたりしてみたら、金にはなるのではないか?人間は長い長いあいだ、それを信じていたんです。

 

そして結局のところ、錬金術は存在した・・。

山手線レベルの加速器(ヒッグス粒子を発見した)が必要だったとしても、今は、元素から違う元素を作ることが可能になっています。

方法はあったんです。

あるいはあと200年経ったら、それはもっと容易いことになっているかもしれない、

「昨日、金造り過ぎちゃってさ、要る?」なんて会話ができているのかもしれない。

 

錬金術はまた後世になって、疑似科学と呼ばれた、さまざまな亜流の学問のアバタ―とかシノニムとかいったようなものとなりました。

ただこの、疑似科学という言葉は、大変危険だと思っています。

「1+1=2」なんて、誰かが勝手に決めたゲームのルールみたいなものしか正しくないみたいな風潮が世の中を覆っていた時代。

でも、そうじゃない。もちろん、そうじゃない。

今まで、疑似科学と切り捨てられたなかにこそ、真実があるかもしれない。

オカルトでも神秘主義にも陥ることなく、なんとか科学として取り組めないものかと、ユングとパウリが目指したものを引き継いでいけないものかと、密かに思う。

 

もうひとつ、ヒルコの話。

 

そうだよねえ、日本にも太陽神(男)は居たんだ! という話。

日本書紀や古事記に出てくる「蛭子」のことです。

そう、当時は漢字なんか無かったんだから、蛭子はヒルコであり、昼子であり、太陽神(男)なのに違いない。

どうして気がつかなかったんだろう。それはたぶん、蛭のように骨のない暗闇に流された生まれ高き神いうイメージが、あまりに退廃的で心惹かれるものであったからでしょう。

 

封印された太陽神(男)に今は心惹かれていますが、これは既に多くのひとが取り組んでいるようですし、何か面白い研究が出るとよいのだけれど、宮内庁とかに行けば、結構もう多くのことはわかっているのではないか(つまり正史について)、いつかのタイミングでそれは顕かにされるのではないかと、実に何十年も待っているのです。

 

 

タイトルとプロフィールをはじめ、blogのあり方を変えました。

もっと、自分本来の姿に近いところで文章を書いていくことにしました。

 

よろしくお願いします

まずはお知らせまで。



 
Ipad
を買ってレッチーナ・ディスプレイの美しさに感動しています。

そして、このコンピュータは、ほぼワード・プロセッサと化しています。

 

7月も終盤ですね。

 

何本か映画を見ました。

劇場では「SNOW WHITE」、ちょっとよくわかりませんでした。ただし、当人が立ちあがって「母殺し」を行わなければならないのだ、という主題は明確でした。

 

白雪姫というのは、グリム童話ですが、グリム童話というのは、「遠野物語」のような一面を持っていて、グリム兄弟が収集した民話・伝承を集めたものです。

だからこそ、誰かがひとりで作りあげたものではない、示唆とヴィジョンに富んでいるものなのでしょう。

ディズニーがリメイクしても古くならないだけの「何か」が含まれている。

 

ただし、後に改編が行われて本来の意味を失ってしまったという側面もあります。

白雪姫は、童話集の第一版では、実の母親に命を狙われる話だったのですね。ただ、それはあまりにひどいということで、第二版以降は継母になっています。

 

そう、7歳の娘が自分よりも美しいと言われたことに腹を立て、執拗に殺そうとする実の母親の物語なんです、実は。

 

そしてこの白雪姫は、自分で「片をつける」。

スター・ウォーズは「父殺し」の話ですが、この新しい白雪姫は明確な「母殺し」の話です。

甲冑を身に着け、刀を取り、母親を殺す話なんです。

息子は父を、娘は母を殺さなければ、「本当の未来」というものはこない。

 

極端な話をしますと、人間というものは父と母を埋葬した後でなければ、「自由な」恋愛はできないものなのでしょう。

ほかのさまざまな部分に関しても、「両親」はなんらかの大きな影を与えるでしょうが、特に恋愛においては顕著なのだと思います。

 

そもそも、ある程度「精神的な自由」を確立していない人間が、思い込みで子育てをすることに問題があるのかもしれません。

 

ふと、思いました。

私は正直に話せば話すほど、酷いんですね。

そう、私はいつからかそれを知って、あまり本当のことを言わないようになったのかもしれない。

誰も「本当のこと」なんて知りたがっていないように思える。

誰も「気づきたくもない」ように思える。

自分の作りあげた「世界」や「価値観」がたとえ、とても脆弱で、本心ではそれが間違っていることを気づいていたとしても。