悔しいことに自分が変えられることなんて、自分の事だけなのかもしれない、
それに悲嘆させ、気づかせてくれたその友人からは、いつも忘れた頃に連絡が来る。
今朝は、その忘れた頃だったようだ。

私と友人が親しくなったとき、言葉は心に必ず届くと信じて疑わなかった。
相手がどんなに辛い時でも、立ち止まっているときでも。
だけど本人でさえどうすればいいのか解らない、浮遊したままの心がある。
そんな時の言葉は無力で、心を響かせる事も、奮わせる事も出来ない。
そんな心が溜まりになって、何かを投げ入れても波紋は広がらない。
溜まった分の何かが器に一杯になって溢れそうなのに、
それを零したり、流したり、吐き出す術を解らずに佇んだままでいる。
友人は佇んだまま、もう何年も其処に立ち止まっている。
私や他の友人が色んな道を歩き、泣いて、笑って、怒っているときに、
その友人は、ずっとずっと、そんな感情を忘れたかのように。
余りにも酷な気がして、私はいつも言葉を失う。
憐れんで欲しくはないだろう。
きっと、泣いて欲しくもないだろう。
それなのに、私は掛ける言葉も笑う顔も見つからない。
誰かに何かをしてやれるとか、誰かの何かを変えてやれるとか、
そんなものは何一つとしてないんだ、と思い知らされる。
ただ1つの小さな電話機が、私と友人を繋いでいるのだ。
友人も忘れてしまいそうになる頃、思い出したように確かめてくるのだろう。
自分にも、友達と呼べる人がいるのだ、と。

私は無力で泣きそうになった、あの頃を思い出す度に立ち止まる。