明智光秀公首塚 | 広島東洋カープ必勝祈願blog

明智光秀公首塚


天正10年(1582年)、本能寺の変で天下を握った明智光秀であったが、わずか11日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討死する。最期は、わずか10名ほどの供回りを従えて居城に落ち延びる最中に、小栗栖の竹藪で土民の手に掛かって致命傷を負い自刃するという悲劇的なものであった。

自刃した光秀を、家臣の溝尾茂朝が介錯したところまでは諸説一致するのであるが、その後の首級の顛末はまちまちになっている。茂朝が居城の坂本へ持ち帰ったとも、難を逃れるために一時土中に埋められたとも、さらには秀吉方の手に落ちて刑場などに晒されたともされる。その中で三条白川橋を南に下ったあたりに、明智光秀の首塚とされるものが残されている。





近くには坂本竜馬結婚式場跡もありました