静岡市音羽山清水寺 | 広島東洋カープ必勝祈願blog

静岡市音羽山清水寺


今川氏と清水寺
駿河の守護大名・今川氏輝は1513年(永正10年)に、8代今川氏当主・氏親の嫡男として生まれ、13歳で元服した。その翌年に氏親が死亡したため家督を継いだが、このとき氏輝はわずか14歳の若年であったため、氏親の正室・中御門氏が髪をおろし、寿桂尼と名乗って補佐役となっている。その後、1536年(天文5年)に氏輝が24歳で死亡したときに、清水寺の開創を遺命したとされる。「今川記」によれば、氏輝は当時より臨済宗を信仰していたとされているため、遺命でなぜ真言宗の寺院を開創させたのかは謎であるが、寿桂尼が京都出身であり、観音信仰を持っていたからである可能性がある。

また、氏輝が死亡したのと同日に弟・彦五郎も死亡し、後に家督を巡る争い(花倉の乱)が引き起こされている。そのためか、漸く1559年(永禄2年)になって氏輝の遺命が実行され、今川家臣・朝比奈丹波守元長が当寺を建立した。その際、地形が京都の清水寺と似ているため、この寺名が付けられた。

徳川氏と清水寺
開創された清水寺は、堂宇が整うまでもなく1568年(永禄11年)には武田氏の駿河侵攻によって焼失してしまう。しかし、徳川家康が、1582年(天正10年)に駿府を領有して以降はしばしば当寺を参拝し、自らの念持仏の千手観音(伝・恵心僧都作)を奉納するなどした。

また、家康が将軍として江戸城にあった1602年(慶長7年)には高10石の朱印地を与え、この朱印をもって供養田と山林を寄進するとともに、三つ葉葵の使用を許した。そして、大御所として駿府にあった最晩年の1616年(元和2年)には本堂の再建を行った。









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