ソ連は戦後、日本の捕虜を違法にもシベリアに抑留した。

 ソ連スターリンは1945年8月23日日本人捕虜50万人をシベリアへの移送を極秘に命令した。


 ソ連はドイツとの戦闘で多くの犠牲者を出した。その穴埋めの労働力を日本人捕虜を当てたのだ。


 ソ連は45年8月9日、日本との中立条約を破り満州へ攻め込んできた。

ソ連は2重の過ちを意図的に犯した。


 日ソ中立条約を破ったこと。戦争は終結してたのに、45年8月23日、日本人捕虜をシベリアに移送して労働力とした。


 シベリアやモンゴルには多くの日本人捕虜が収容所に連行された。

 極寒の中、鉄道建設など重労働を担わせられた。


 飢えや伝染病で約5万5千人が死亡した。

ようやく、引揚は46年12月から10年もかけて行われた。54年10月の日ソ共同宣言で最後の引揚だった。


 女性がどの位含まれたかは不明だけど、ロシアの記録から300人以上5千人に上るという。

女性は常に性被害の恐怖の下にあった。


 新聞にシベリア抑留を経験した市川さんの話が載ってた。

 (内ポケットに忍ばせた劇薬入りの小瓶。零下40度の凍てつく寒さ。苦役の末に息絶える元日本兵たち)


 女性はソ連兵に捕まれば性的暴行を受ける恐れが有ると、上官に言われた。

 いざという時の為に(大和撫子の名を汚すな)_部隊長から配られた自決用の青酸カリを持ち歩いた。


 敗戦は9月中旬に知った。(無茶な戦争をしたからだ)_と思った。10月、極東のハバロフスクの収容所に連行された。


 極寒の中、充分な食事も無く重労働で男性は次々と栄養失調で倒れた。(お母さん、お母さん)_とうわ言の様に繰り返してた。


 約2年間の抑留生活を経て、帰国出来たのは46年10月で、青酸カリは海に捨てた。


 現在101歳の市川さんは呟く(戦争はいけん、戦争するのはバカだ)


 日ソ共同宣言で政府はソ連への賠償金請求を廃棄した。その結果、政府が250万〜1500万円を払ってるが、高齢化で人数は少なくなってる


ありがとうございました。感謝、感謝😠🎭