お金との付き合い方がわからないときの一冊 | 貿易屋さんのまっとうなブログ

久しぶりのブログである。
ここのところとても忙しかった。
ホームページを立ち上げたおかげでいろいろなお問い合わせをいただきました。
無論、すべてのお客様のご要望を満たすなどという神がかった対応はできません。
そんなときは力不足を実感します。
が、同時に世の中にはまだまだいろいろなニーズがあるのだ、経済がどうあろうと伸びしろはあるのだ、と前向きに謙虚に受け止めています。
お問い合わせいただいたニコニコ皆様に感謝ニコニコです。


さて先日横領容疑の男が海外で御用となり、帰国そうそう司法の手に委ねられることになる、というニュースがありました。
メディアの情報を鵜呑みにはできませんが、相当派手な生活をしていたというのは事実なのであろう。
この人はどんな人物だったのだろうと考えたとき、吾輩はなぜだか断言してしまう。
そんなお金を手にしなければ、普通の生活を送っていただろうに、と。


お金は人を変える。
いや、必要なものだから、「身の丈に合わないお金」は人を変える、というべきか。
では「身の丈にあったお金」とはいくらなのだろうか?


考えてみれば不思議なものだ。
「身の丈に合わないお金」の危険性をうすうす感じながらも、お金は多い方がいいと信じている自分を否定できない。
お金はモノやサービスと交換することで初めて効力を発揮する、言うならばチケットだ。
「北○の拳」の舞台のような荒廃した物資もマーケットもない世の中であれば、第一話でワイルドなお兄さんが叫んでいるように、札束などちり紙としても使えない「役立たず」である。
好きなアーティストのライブを見るには自分の分があれば十分なのだ。
なのにお金というチケットは、自分に必要なモノがそもそも何で、どれだけ必要かも考えることなくとにかく多い方がよいと決めつけてしまう。
サラリーマンの平均生涯収入が3億円(税込)に満たないようなご時世で、今年の年末ジャンボは最高7億円だそうだ。
人生をもう一回経験できるくらいのそのお金を求める人たちは、どんな使い道をもっているのだろうか?


そんな時、この本を手に取った。



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「わが子に「お金」をどう教えるか」

"お金ありきの幸せではなく、幸せありきのお金である"

                            篠上芳光


ごもっともである。
わが子がいなくても、自分自身の為に学べる一冊である。


我々はお金に踊らされすぎである。
お金は必要だから仕方ない、は、論点ではない。
お金に我々の品格が貶められていることに気づかなければならないのだ。


他人が手に入れたモノをすぐに金額換算して高ければ羨み、安ければ鼻で笑う人。
自分の舌で確かめることもなく、高い料理だからおいしい、安い料理だから並と考えしまう人(ホテルの食品偽装も最近話題でした)。
ライフスタイルや好みも考えず高いほうがよいと選んでしまう人。


皆、他人が付けた金額を物差しにして価値を判断しているのだ。

いうならば価値判断を他人に任せているということであり、モノの本質が見えておらず、お金に聞かないと判断ができない人たちだ。


なんと薄っぺらなつまらない人間だシラービックリマーク
彼らのようには絶対なりたくないガーン

・・・ところが吾輩も含めて皆、知らぬまに金額を物差しにしているのだ。
しかもかなりの頻度で。


大切なのはお金など手段であって目的ではないと気付くことだ。
「幸せ」という抽象的なものを出来る限り具体的なイメージにすること。
すると「幸せ」を実現するために必要なモノやサービスが何なのか見えてくる。
そしてようやくお金がいくら必要か、という話になる。
その「幸せ」とは何か、が難しい所ではあるが、まさに「幸せありきのお金」なのだ。


お金がこれだけあるから、何を買えば幸せになるだろうか、という考えは危険だ。
買うものはどんどんグレードアップしてゆくだろうし、自分に集まる薄っぺらなつまらない人間の羨望の眼差しこそが幸せだと考え、それをもっと増やそうと考えてしまうだろう。
そうなると買うためにどんどん稼がなければならなくなる。
稼いでは使い、稼いでは使い、しかし心は満たされてゆくのだろうか?


「お金というものは、塩水と同じようなものだ。塩水は飲めば飲むだけのどが渇き、いくら飲んでもつぎつぎとほしくなる。お金もまったく同じもの。いくらお金があっても、またほしくなってしまうものだ。」(本文より引用)


こんなお金に振り回される人生、吾輩は御免である。
一個人の人生を考える上で、お金に縛られない価値観を持つことが「幸せ」の一つのファクターである、ということは共感できる。
望んでも手に入るはずのない大金を夢見るのであれば、今あるお金でどう幸せに暮らすかという発想の転換は必要になると思う。


しかしである!!


吾輩は貿易屋さんとして利益を生み出さねばならないし、生み続けなければならない。
このように達観して「お金などこれで十分だ」と考えることは、収入がなくなる引退後はともかく現役の吾輩は受け入れられないし、受け入れてはいけない。
それは企業の活動目的と矛盾をする。


そこで、自分の中で整合性をつけた吾輩流、わが子に「お金」をどう教えるか、をご紹介したい。




いきなり全く関係ない話をするようであるが、関係あるのでお付き合い願いたい。


ここに丸太が何十本もある。
結構太い。


あなたは吾輩に指示してこれらをすべて半分に切らせなければならない。


用意された道具は二種類ある。
のこぎりとチェーンソーだ。
どちらを使わせてもよい。


念のため説明するが、のこぎりとはギザギザのついた金属の薄い板に柄を付けた工具で、ギザギザを丸太にあてがってギコギコと手で引いて切断するのある。
一方チェーンソーとはギザギザのついたチェーンを原動機で高速回転させ効率的に丸太を切断する、いわゆる電動ノコギリである。


さあ、あなたは吾輩にどちらを使わせてくれるだろうかはてなマーク


吾輩に嫌がらせをしない限りチェーンソーを選んでくれるのではないだろうか?
どちらも切断するための道具として同じカテゴリーであるが、その目的を果たす為の能力、すなわちスペックには雲泥の差がある。
のこぎりは非効率だ。
一本あたりにかかる時間は、のこぎりはチェーンソーの何十倍もかかるだろう。
この作業をさくっとすませるに当たり、どちらを使うべきかは明白である。


あなたはそう判断した。
だれも間違っているとは思わないだろう。
あなたは吾輩にチェーンソーの優れた点と使い方を伝えそれを手渡し作業につかせようとしましたとさ。


・・・吾輩が、まだあどけない小学生であるにも関わらずである。。。


ここで、ちょっと待てパーと、思っていただければ幸いである。
実際吾輩はいい歳のおっさんでありチェーンソーも使いこなせるが、もし子供であったらあなたはチェーンソーは渡さないのではないだろうか?


当たり前なのだが、あえてそれがなぜなのか考えて欲しい。


はてなマークなぜチェーンソーが効率的に丸太を切断する素晴らしい道具であることを知っているのに、相手が子供であれば使わせないのだろうかはてなマーク


チェーンソーをよくご存じない方には理由が分からないかもしれないが、実はこれを扱うには結構な腕力と体力が必要なのだ。
到底子供が扱える道具ではないし、成人女性でもキツイと思う。
若いうちは何事も挑戦だ、という考えも否定はしない。
しかしこの挑戦は、一度失敗したら取り返しがつかない結果になる可能性が極めて高い。
チェーンソーは成人に対しても一撃で命に関わるダメージを与えることが可能な道具だ。
腕力も体力も、おまけに判断力も発展途上の小学生に、こんなものを使わせることなど論外である。


屁理屈に聞こえるかもしれないが「優れた道具」などこの世に存在しない
それを使いこなす人次第で、「優れた道具」にもなれば「劣った道具」にもなり、場合によっては「人の命を奪う道具」にも成り得るのである。
つまり道具を使うためには、使う人間にも満たさなければならないスペックがあるということだ。
それを満たしていないと取り返しのつかないことになる可能性もあるということである。



吾輩はお金というものの本質も全く同じだと考える。
お金はモノやサービスと交換する為のチケットであり、結局は道具である。
効力のほどは額をみれば一目瞭然。
1,000円より10,000円、10,000円より100,000円と数字が大きいほうが「購買力」のスペックがあがる。
そして道具である以上、使いこなせるスペックを持った人でなければ、痛い目をみるのである。


さて、ここに自由に使ってよいラブラブ!10,000,000円ラブラブ!(一千万円)があなたに手渡されたとする。
こいつはかなり高スペックなチケットだ。
街で見かけるモノは、大抵現金でポンと交換できるだろう。


さあ、あなたは怪我をしないよう上手に使いこなすことができますかはてなマーク


こう聞かれても普段お金の使い方で安全や危険など考えたこともないであろうから、ピンとこないと思われる。
まず考えなくてはならないこと、それは使う人間が何者であるかということだ。


吾輩と同じ年代の社会人ならうまく使いこなすと思われる。
なぜなら吾輩は、絶対に安全かつ、最も有効に使いこなす自信があるからだ。
用途は住宅ローンの繰り上げ返済である。
同年代であれば住宅ローンを組んでいる方は多いのではなかろうか。
借りてみてわかったが(叫びお恥ずかしい限りである叫び)、複利式ローンは恐ろしい仕組みだ。
金利と期間によるが、月々の支払だけに任せると最終的には借りた金額の倍近く支払う計算になることも珍しくない。
ところが繰り上げ返済を行うと支払期間も短縮できるし、利息金の割合もぐっと減るのだ。
もし一千万円もの繰り上げ返済を行えば、のちのちの負担は格段に軽くなる。
住宅ローンは月々の家賃の代わりということで借金の認識が薄くなりがちだが、間違いなく借金である。
だから早く返済をするべきなのだ。

これは素晴らしい使い方ではないだろうか?


いっぽう、もし大学生の吾輩だったらどうなっただろうか?


世の中いろんな学生がいるが、大学時代の吾輩はひどいものである。
学費や生活にかかわる費用のほぼすべてを親に頼っているにも関わらず、バイトで収入があるためお金のスペックはきちんと理解しており、しかも自分の都合で使うことができる。
しかし生活を支える為に稼ぐことの難しさや厳しさは当然知らないし、経験もない。
日々の生活は親に保証されているため、財布の紐はかなりゆるく、それゆえかモノを豊かさと考えがちで物欲は強い。
おまけに世間の荒波にもまれたこともないのに、世の中のことは知ってるつもりの世間知らずである。
改めて振り返ると、恥ずかしくなるような小者であった(これを自覚しているので、今は少しマシになっていると思う)。


一千万円を手にしたら、まず学業が手につかなくなりお金の使い道ばかり考えるだろう。
それもかなりくだらない使い道だ。
取り敢えず気になったモノはすぐ購入するだろうし、見栄で友達に奢ったりするだろう。
自分が働いて稼いだわけでもないその一千万円の力のせいで、まるで自分が偉くなったかのような錯覚に陥るからだ。

給料日(自分で稼いだお金ではあるが)に気が大きくなった経験はみなさんにはないだろうか?

そんな感じだ。


しばらくすると普段近づかなかったネオン街をうろつき始めると思われる。
大人の世界に入ろうとしているのだが、汗水たらして働き、苦労をしている大人の姿を知らないので、アフター5を楽しんでいる大人が「大人の世界」だと勘違いしているからだ。
中高生が大人の真似をしてタバコやお酒に手を出す感じとよく似ている。


そうすると転げ落ちるのは早い。
世間知らずのアマちゃん(ドラマではない)にネオン街は危険がいっぱいだ。
ワルい大人たちがカモとばかりに言葉巧みに近寄ってくるだろう。
大金を持っている事を知られれば、恐喝されるかもしれない。
調子に乗って、いけないクスリに手を出し始めるかもしれない。
一千万円は大金だが、驚くべきスピードで底をつきることになる。


さらに問題は、お金がなくなればそれで終わりでないということだ。
一千万円という圧倒的なお金の力を知ってしまった以上、その力がもたらした快感をリセットはできない。
カモとして付き合ってくれていたワルい大人たちは離れてゆくだろうが、大人の世界から不適格とされたように思え辛く感じるだろう。
一方恐喝者は去らず、それどころかどうにか工面してもってこいと脅すだろう。
一度上げてしまった贅沢レベルも下げられない。
ましてや、いけないクスリに手を出していたら個人の努力ではやめることは相当難しいであろう。


結局、もとの生活には戻れない。
遅れた学業を取り戻そうとは思わないだろうし、無謀にもお金をもっと稼ぐんだと、学校をやめてしまうかもしれない。
いや、ドラッグにまで手をだしていたら、まっとうな人間に戻れるかどうかも分からない。


これはもちろん想像であるが、まるで見当外れではないのではないだろうか。
最近夜の繁華街で制服の若者がうろうろしているのを見かけることがあるが、彼らは何をしてるのだろうか。
かれらが学生ではなく、コスプレが趣味のりっぱな社会人であることを願わずにはいられない。


同じ一千万円でも前者はとても有効により良い人生の為に役立てているのに、後者は人生を台無しにしてしまった。
そんな大金、初めからなければよかったのだが、おそらくそのような後悔などなく、未練たらたらであろう。
大学生の吾輩に一千万円という道具は、子供にチェーンソーを渡すようなものだったのだ。
一千万円という高スペックを使いこなすには、吾輩はスペック不足だったのだ。
悪銭身につかずと笑って済ませられるものではない。
完治不可能といってもよい大怪我を人生に負わせてしまうのだ。



さて結論である。


ここまで書くと結局、大金など持つべきでない、といっているように感じるかもしれないがそうではない


チェーンソーは使用者に体力や腕力といった、子供には努力で解決できないスペックが必要だ。
だから子供には絶対に使いこなせない。
しかしお金という道具は体力や腕力で扱うものではない。
求められるスペックはそれとは異なり、年齢で決まらないものだ
傾向は見られるだろう。
しかし、それでも絶対ではないのだ。


だから学生の吾輩であってもスペックさえ満たしていれてば使いこなせたはずなのだ。

事実、学生でも起業したり、慈善活動にお金を使っている学生はいる。

バイトであっても、お金を稼ぐことを知っているのであれば、大金を持ってしまったことが問題なのではなく、使いこなすためのスペックが十分に上がっていなかったことが問題なのだ。


ゆえに吾輩流「我が子お金をどうおしえるか」はこうである。


「お金はとても大切だ。
まっとうな方法でより多く手に入れるように努力しなければならない。
だからいつどんな高スペックの大金が手に入っても見事に使いこなせるように、日頃から自分のスペックを上げることを怠ってはならない
今、それが一番大切なことであり、自分次第で実現できるもっとも確かなことだ。」


こう考えるからこそ吾輩はまだ稼ぐ方法を知らない子供たちであってもお金の話はする。

もちろんコミュニケーションが取れる年齢であることが前提ではあるが、「まだ早い」と親が勝手に判断して、学ぶチャンスを奪うようなことはしない。

だいたい避けて通れる話であるはずがないではないか。

お金に関する情報は氾濫している。

高校生にでもなれば、要領よく隠れてバイトを始めてしまうことができなくもない(らしい?)。

こうなってからでは、遅いのだ。


しかし一方で小遣いやお年玉は決して過剰に渡さない。

足りないくらいがちょうど良いと思う。

どうしても必要なモノがあれば、話し合って親が決済をするようにする。

お金を稼ぐ経験のない者は何歳であっても、まとまったお金を使いこなすにはスペック不足なのだ。

むしろこのような機会を多く持つことは、お金について話し合う絶好のチャンスなのだ。


逆に、社会人であれば安心というわけでもない。

吾輩はむしろ危ないかも。
今はローンを抱えているから有効に使いこなせるだけだ。
それがなければ、やはりネオン街でけしからんことをする可能性が高い。
社会人であれば、必ず使いこなせるわけでもない。
冒頭で触れた横領の容疑者はそのよい例だ。
(・・・もっとも犯罪で手に入れてたお金に使い方もなにもないのだが)


お金を使いこなすために我々に求められるスペック,それは一体なんだろうか?
本当はこれをお伝えして〆としたいのだが、残念ながら吾輩も修行中であるため、今は無理である。
もちろん、目途はついているし、今のところ間違っているとは思えない。
吾輩の中で絶対必要だと思えるスペックが一つある。
「見識」である。


見識・・・物事の上っ面ではなく、本質を捉える能力。


言うのは簡単だが、見ろと言われてすぐ見える本質などない。
見識を高めるためには日々の努力や意識が必要なのだろう。
これはいみじくも、我が子に教えた「日頃から自分のスペックを上げることを怠ってはならない」に通じるものがある。


本質を見抜くのは難しい。
そのために知識や情報をより多く得ることが重要なのだが、それが難しいのだ。
情報化社会と言われているが、これはそんなに都合の良いものではないと思う。
誰でも簡単に情報が取れるようになったということは、誰でも簡単に情報を発信できるようになったとも言える。
そのため発信元が注目を集めるために尾ひれをつけて発信しているものが多くなった。
それどころか一般受けしそうな内容に事実を歪曲して発信しているとしか思えない情報もある。
特にお金に関する情報もそんなのが目に付く。
テレビなどのメディアは、どうもよいモノを持つことが幸せな生活であるというメッセージを発信したがってるようだ。
消費が活性化しなければ経済は停滞してしまうので非難はできないのだが、どうにも意図を理解するのが難しい番組も少なからずある。


有名人の豪邸拝見というような番組があったが、あれはいったいなんだったのだろう?
なるほど立派だった。
いちいち金額を発表していた。
その度にレポータが、「すごいですね~」と相槌を入れていた。
バラエティとはそういうものなのかもしれないが、何を伝えたいのかさっぱりわからない。
視聴者はこれを見て「なるほど、うちもこうしよう」と思うのだろうか?
本当にそう思う視聴者がいたとすれば失礼ながら浅い見識をお持ちだと思う。


まず視聴者は有名人ではなく大抵一般人だ。
住む世界が違う。
いや、そもそも名人=高収入なのだろうか?
有名人である以上、実情がどうあれ景気がよいとハッタリをかます必要が多かれ少なかれあるのではないだろうか?
思うに、ある程度名の通った人であれば豪邸を立てること自体は一般人より簡単だと思う。
問題はその人の本当収入、住宅購入にあたり必要になった出費、借入れた金額、その金利と期間などなどの情報から、生活の維持も含めてどんな計画を立てているか理解した上でその豪邸を見ないことには、その豪邸に住むにふさわしい人物だから、「すごいですね~」なのか、単に見栄をはってるだけですぐに首が回らなくなるであろうそのバカさ加減が、「すごいですね~」なのか判断はできないのではないだろうか。
残念ながら番組がそんな情報を発信することはない。


今あるお金でどう幸せに生きるかを考えることは、よりよい人生のための積極姿勢に見えなくもないのだが、稼ぐことをあきらめた消極的な姿勢とも受けとめられる。
先に述べたようにその考えは「収入がなくなる引退後はともかく現役の吾輩は受け入れられない」。
中年がそう実感しているのに、未来ある子供たちや若者にそんな消極姿勢を推奨できようはずもないではないか。
将来しっかりと自立し自活できる稼げる人間になるためにもお金の理解は不可欠である。
だからお金を危険なものとしてとして、子供たちから遠ざけることは同意できない。
だが、そのなんたるかを教える為には、お金のユーザとして我々大人がスペック不足では話にならないのである。


現代では万引きした商品を下取りで換金したり、ネットにかじりつき株の取引で利ざやを稼いだりする学生、○○○○○○○○○したりする女子学生など、方法を問わず、とにかくお金が欲しい子供たちがいるようだ。

悲しいことだ。


全くけしからんむかっ

どんな育てられ方をしたんだプンプン


ごもっともな非難です。


しかし、どうして彼らはそうなったのかと考えたことはあるだろうか?

十中八九、我々大人の姿を見てお金がそういうものだと学んだのだと思う。


このブログを読まれた方が、少しでもお金について改めて考える機会をもっていただければ幸いである。