三面六臂・阿修羅 超私的ライブラリー
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映画評 #072

モハメド・アリ/ザ・グレーテスト

モハメド・アリ ザ・グレーテスト
DVD-BOX/ポニーキャニオン

¥19,950
Amazon.co.jp
出演: モハメド・アリ
形式: Color, Dolby
言語: 英語
字幕: 日本語
ディスク枚数: 5
販売元: ポニーキャニオン
発売日 2010/05/19
時間: 697 分



“The Greatest” 偉大なる、アリ。
その生涯がアメリカ現代史の光と影をいみじくも体現してしまうという、おそらく不世出のスポーツマンだった。
華麗なスタイルでヘビー級ボクシング界を一新させ、そのスター性から言動そのものが衆目を惹きつけ、つねに"闘うことの意味"を、赤裸の体ごと問い続けた。
生きながらすでに伝説と化した生涯が、ついにエンド・マークを迎えた。

功罪は措いて、巨額なマネーが動くショー・ビジネスとして、ボクシングの地位を押し上げたのは紛れもなくアリの実績だったろう。アリの登場がなければ、重鈍で力任せに殴り合うだけの、あえて云えば"見世物"的な印象だった原始的スポーツの革新はあり得なかった。あまりに劇的なアリという個性の登場以来、ボクサーたちはその栄光と挫折を物語として場外でも語られるようになり、すくなくともアリの時代のヘビー級王座を賭けた選手権試合は、観る者それぞれが自身の内面の何物かを一介のボクサーに仮託した、文字通り"世紀の一戦"と化した。
アリの放言は、彼自身で闘いへのモチベーションを持ち続けるうえで必須だったし、意識的にメディア受けをねらった画になる言動を重ねることによって、おおきくプロモーション面に寄与もした。

人種差別に絡み金メダルを捨てたことも、ベトナム戦争への徴兵拒否も、むろん、アリを語る上では欠かせない、どれも伝説的逸話である。社会的闘士としてのアリの誕生――。あまたのアリの死を悼むコメントにはかならずこの“聖人視”が施されるはずである。

「“ベトコン”は俺を“ニガー”とは呼ばない。彼らには何の恨みも憎しみもない。殺す理由もまったくない」

この一言はいわゆる聖人が吐くセリフではない。国家の正義などは歯牙にもかけないきわめて初歩的で率直な生理的怒りの表明である(そうして、おそらく“ベトコン”も“ニガー”も、いまのこの国のメディア・コードにはなじまないだろう)。何の因果か、リング上でたった一人で何の恨みもないライバルたちと血みどろの命のやり取りを繰り返してきた、その不条理を知る男だけが吐ける勇気ある放言だった、と私はおもう。

アリの眼――。この映像集を見れば立ちどころだが、いつでもどこか狂気を宿したような何かに憑かれた眼。生来の闘士だけが見せる不穏な眼光が、そこにはある。アリにとっての闘うことの意味とはおそらく、武器を取って徒党を組んで見知らぬ敵兵を殺すことなどではなく、純粋にリング上で最強の男になること、それだけだった。自身で培った最高の技術と闘志とを傾け、腕っぷし一つでつかみ取る栄光。そのシンプルで無垢な子どもっぽい夢だけを抱きしめて離さなかったからこそ、アリはアリであり続け、何度もリングに還ってきた。

現役引退後のアリは、そうして、パーキンソン病を患っていた。深刻なパンチ・ドランクによる影響とも巷間いわれるが、その正否は定かではない。
生彩を失ったアリの後半生の姿を無残として目を背ける向きに、私はまったく与しない。
そこまでして闘いつづけた不世出の英雄の、名誉の受傷であったと見て、何が悪かろう。
病躯をかかえてながい余生を全うした。ライバルたちとの死闘の記憶は、病躯の痛苦にも勝るアリにとって悔いのない宝物だったと信じたい。

誰よりも闘いつづけた男――。
闘いをやめなかった男――。

“The Greatest”
まことに、偉大なるアリ。

あなたに憧れ、誰も、あなたのようにはなれなかった。

佳人の死

暗澹たる本年の掉尾に、せめて佳人の死を惜しもう。

黒木奈々さん――。行年32。
NHK・BSのニュース番組で、凛とした美貌を誇示する才媛だった。
その、あざといまでに露骨な番組制作サイドの彼女に対する“知的ビッチ”的演出は、それが実に聡明な彼女のプライドをいつでも辱めかねないあやうさを孕んでいたが、ただ、指をくわえて彼女の美貌に痴れたい私などの好色漢にとっては、むしろ双手を挙げて歓迎すべき事態であった。
長身でスレンダー、しかも美貌――。告白する。私は、彼女に恋をしていた。
彼女はそうして、男どものそんなアホな劣情を知りぬいたうえで毎夜ミニスカートをはき、なまめかしい脚を衆目にさらし、むしろ下司な視線を養分としてでも成り上がり、いつしか堂々ひとりで在京キー局の冠番組のメインを張るという旺盛な野心を秘めた、おそろしく自覚的なオンナでもあったろう。

その彼女が、死んだ。唐突に。その輝かしい若さがかえってガンの好餌となった。
むろん、しかし私は、現実に生身の彼女を見知っているわけではなかった。彼女の死は、しょうことなく架空めいて、リアルな実感は一切持てなかった。

彼女の通夜が青山で行われたのは、たしか、ちょうど時あたかも彼岸の中日だった。
私はその日、柄にもなく、青山とはほど近い代々木の森で、滑稽かつ愚劣なある集会の一隅に参加しており、佳人の死よりも国家の頓死のほうを、よほど重大視していたのであった。

後日――、猛烈な喪失感が不意にやってきた。

なぜかは知らぬ。なんとなくJUJUの「WITH YOU」をようつべで聞き流していたとき、彼女の薄命がしのばれ、はげしい悲しみが一気にあふれ出した。
あの華奢で豪奢な現身が、その艶めく野心もろとも、もうこの地上からとことわに去ったという冷酷な現実が、なぜか私の涙腺を執拗に刺戟した。
否――、それはきっと、高尚な感情などではない。
もしかしたら、私の掌で嬲り尽くすこともあるいは出来たかも知れなかった、憧憬すべき女体を哀惜する、いわば、けがらわしい獣性の、不純な空涙だったのかも知れない。

死ぬのか――。あなたでさえ、死ぬのか。



合掌

彼岸花 ~さようなら原発・さようなら戦争全国集会~

彼岸の中日に墓参をした。

その帰途、かねてより企図していた代々木公園での集会に闖入したのだった。
ちかごろ各メディアでは、党派や組織に属さない、まったき個人としての“覚醒した市民”の登場がもてはやされ、その新しい潮流が静かに世を変えつつあるようなあざといトーンが一方であり、むやみに希望的観測を垂れ流しているかのようにも見える。
果たして、然りや。なるほどいまやかつてはあったやも知れぬ連帯や紐帯は分断され、個は個として孤絶して生きざるを得ないような荒涼とした世相が現出している。孤独死などもはや珍しい現象ではなくなり、人は人としての繕う体裁すらを失くしつつある。私など、確実に、このまま行けば、誰に看取られることもなく、傍迷惑この上ない、場末の腐乱死体となりおおせるだろう。けれども格別、そんな自身の非業を悲しんでなどはいない。畳の上で親族に看取られての大往生などは、それこそ恥さらしである。いやしくも、虐げられた運命を自覚的に生きる者にとっては、栄達や幸福こそは無縁であるはずべきものであろう。
さて――、そんな私の眼に映じた景色といえば……いたずらに所属を自己主張して乱立する幟り旗と、次々に登壇する“進歩的”著名人たちに拍手喝采する、まるでアイドルのステージに熱狂する満腹そうなオタクじみた“市民”たち。あすこの公園には、それこそ明日にも野垂れ死にしかねない無宿人たちも、昨今押し寄せる“クリーンアップ作戦”にしぶとく抗して、ちらほら居座っていたはずなのだが、彼らの姿は会場のどこにも見当たらず、本来最も心を寄せるべき弱き者たちからの共感こそは、まるでもう、得られていない様子であった。意地悪く解釈すれば、その集会の主催者側も、その参加者たちも、原発やアベのたぐいにもっともらしい反旗を掲げる前に、そこに住まううらぶれた住人たちを、ここだけは抜け目なく世の大勢に倣って、あらかじめ排除したのだともおもわれる。“覚醒した市民”たちにとっては、成城というセレブ街に住まう大御所文化人・大江健三郎などの覇気のない戯言をさも有り難そうに聞く耳を持っていても、人外な何物かとしてそもそも人のたぐいとしてカウントされない無宿人たちの酒臭い下品なクダになどには貸す耳もない、といった益体もない仕儀だったろうとおもわれる。
もうまるで、そここそは、奇形のアイドル・ステージそのものであった。そこに居合わせれば、すぐさま安倍政権など打倒できるものと妄想しそうなほどの、身勝手なボルテージの高揚があった。そこでこそ、異論はきれいに封殺され、予定調和の段取りだけが台本通りに着々と進行していた。

私にはわからない。私はすくなくとも、私個人として、とうてい現状を肯ずることはできない。それならば、分断された個のままではあまりに無力と己をはかなみ、このような詮無い集会にも再三ならず闖入してもみた。だが、むなしい。圧倒的に。私は、こんな時も、誰にも、愛想笑いを投げることができぬ。

ならば、やはり私は私で、孤絶したまま、己に譲れぬ道を、満腔の怒りを込めて、拒むしかない。
そのことをいまさら再確認したのだった。
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