男性のアシュタンガヨガ練習生として、ブラフマチャリアについて書いておきたい。

 

ブラフマチャリアとは、狭い意味では性的な禁欲のことであり、不倫をしないようにとか、セックスをし過ぎないようにとか、性的な快楽に耽溺しないようにと警鐘を鳴らすものである。

 

私はアシュタンガヨガを6年以上練習しているが、高頻度で射精をする生活をしていると、

 

(1)  毎朝マットの上に立つ(長期的に継続すること)

(2)  ヴィンヤサを止めずに動き続ける(一時的に集中すること)

 

ことが難しくなると気がついた。

 

どちらもアシュタンガヨガにとっては重要なものである。このヨガでは、原則的にはムーンデーを除いて週に6日練習することになっている。

 

さらに、ヴィンヤサを止めずに動き続けることは、アシュタンガヨガの真髄と言えるほど重要であり、リラックスと集中が同時に訪れる「フロー」に入るための必要条件だと思われる。

 

しかし、高頻度で射精をしていると、マットの上に立つことを躊躇してしまい、なかなか練習を始めずにウダウダしたり、完全に練習をサボったりしがちになる。

 

さらに、練習を始めたあとでも、サクサクとアサナを進めるのではなく、汗を拭きながらダラダラ休んだり、いちいちアサナに入り直したりして、流れの悪い練習になりやすくなる。

 

要するに、ブラフマチャリアを実践しているほうが(射精の頻度が少ないほうが)、『ヨーガ・スートラ』がいうところの「エーカーグラ・チッタ」すなわち「1点集中の心」を持ちやすいということなのだろう。

 

 

あるいは、ブラフマチャリアを守るほど、自分にとってのタパスを実行しやすくなるとも言える。

 

タパスは「自己鍛錬」と訳されることもあるが、グルジの言葉である「Do your practice, all is coming」の「practice」に相当するものであり、「困難だが自分にとって本当に大切なことをやる」とか、「やるべきことをやる」という意味であると解釈できる。タパスの具体的な内容については、アサナの練習に限らず、人それぞれの選択があるだろう。

 

そして、タパスを実行するためには、

 

(1)  長期的な集中(習慣的に継続すること)

(2)  短期的な集中(そのときしていることに完全に集中すること)

 

の両方が必要である。

 

たとえば、小説を書くことが自分のタパスなら、毎日机に向かい、集中して執筆しなければならない。

 

スマホをいじったり、落書きしたりしながら書くのではなく、執筆のときは執筆に全集中するとともに(エーカーグラ・チッタで執筆する)、書けても書けなくても、雨の日も晴れの日も、とにかく机に向かうことを自分に課して実行するということである。

 

そのようなタパスをブラフマチャリアが促進するなら、ブラフマチャリアは人びとを抑圧するために禁欲を強いるものではなく、より良い人生を支援するためのものであると言えるだろう。

 

 

進化心理学的に見ると、私たちの心は生存と繁殖の機会を最大化するようにプログラムされている。

 

太古のアフリカのサバンナという環境を前提として、できるだけ長く生き延びて、できるだけ多くの子孫を残せるように、そのために(当時の環境に)最適化された心を私たちは持っている。

 

私たちの食欲や性欲が過剰であるように感じられるのは、強い欲求を持つ個体のほうが生存と繁殖に有利であり、私たちはそのような個体の子孫だからである。

 

たとえば、食料が乏しく、次はいつ食事ができるか分からない環境で「腹8分目」で食べる個体がいたならば、餓死しやすく、子供も残しづらかったはずである。長い進化の過程において、そのような個体は淘汰されていなくなり、たとえお腹がいっぱいでも、目の前のものは全部食べてしまうような個体が生き延び、その子孫が地球上に繁栄したと考えられる。それが現代の私たちである。

 

このような理由で、現代社会に暮らす私たちは、太古のアフリカの祖先たちと同じ心を持っている。

 

心は、生存と繁殖を最大化するために欲求という形で私たちに働きかけてくる。ヨガというのは、そのような欲求とうまく折り合いをつけて、心穏やかに充実した人生を送るための技法であると言えるだろう。

 

生物としてのプログラムを超えて、有意義な人生を生きたいなら、おそらくヨガが役に立つ。ブラフマチャリアはそのための具体的なアドバイスである。

 

ブラフマチャリアの実践は、一時的な集中力と長期的な継続力の両方を高めることで、私たちのタパス(practice)をバックアップしてくれるだろう。