今日はセカンドシリーズを練習したあと、1時間くらい外を走った。
走っているうちに思い浮かんだのだが、走るときは、次の2点のようにするとよいのではないだろうか。
(1)走るコースを定めずにジョギングする(心拍数は低め)
自分が走るコースを決めずに、気の向くままに走る。
交差点に来たら、直進してもいいし、曲がってもいい。
周囲の様子に目を配りながら、そのときの気分で好きなところに向かって走る。
新しいお店や、美しい建物を見つけにいくような気持ちで、ジョギングする。
(2)ゴールを定めてランニングする(心拍数は高め)
目標を定めて、そこに到達することを強く意識して走る。
まわりの景色を楽しむのではなく、ゴールに向かって一気に走る。
しんどいなと思ってもあきらめず、目標にフォーカスしてランニングする。
走るときは、(1)と(2)の両方を取り入れるとよいのではないだろうか。
理由は次の通りである。
ここまでの2つの記事でも議論したように、私たちの心と体は、アフリカのサバンナで狩猟採集生活をしていたときの環境に適応するように進化している。
そこでは、歩いたり、走ったりすることが、食料や住処を見つけたり、獲物を捕まえたり、敵から逃げたりするために必須であった。
要するに、歩いたり、走ったりすることは、私たちの生存の可能性を高めていた。
そのため、現代の都市に暮らしていても、私たちの心と体は、歩いたり、走ったりすることを求めている。
そして、歩いたり、走ったりすると、不安やストレスが低下し、ポジティブ感情も増加することに加えて、記憶力・集中力・創造性といった知的なパフォーマンスも高まることが、実証的な研究によって明らかにされている。
そうすると、望ましい走り方を考えるときには、アフリカのサバンナで行われていたであろう走り方を想像することが、重要なヒントをもたらすだろう。
歩いたり、走ったりすることの目的の1つは、果物、木の実、動物といった食料や快適な住処を「探す」ことであったと考えられる。
「何か良いものないかな?」と探索するために、移動していたと考えられる。
このときは、歩いていたか、走っていたとしても、それほどスピードは出していなかっただろう。
きょろきょろとあたりを見回しながら、心拍数が上がりすぎない程度の強度で、歩いたり、走ったりしていたと思われる。
このように考えて、(1)の走り方を提案している。
走るコースを定めるというのは、環境中を探索するために走っていた、という観点からすると、望ましい走り方ではないかもしれない。
知らない場所に何か良いものがあるかもしれず、それを探すために走っていたのだとしたら、お決まりのコースではなく、自分の知らない場所を走るほうが、走ることの本来の目的に沿っていることになる。
走ることの目的のもう1つは、発見した獲物を捕らえたり、敵から逃げることである。
この場合は、意識はひとつの対象に強くフォーカスしている。前者の場合なら「獲物」にだけ意識が向けられており、後者なら「逃げ切る」ことだけ考えているだろう。
このときは、できるだけ速く走ることと、苦しくても途中で諦めないことが必要だったと思われる。
ジョギングというよりは、ランニングのスピードだったと言えるだろう。
このように考えて、(2)の走り方を提案した。
(1)のように周囲に意識を拡散させてゆっくり走るのではなく、目標を決めて、そこに向かって一気に走る。
苦しくなってもスピードは落とさずに、ゴールに到達するまで走り続ける。
「獲物を捕まえたぞ!」、「敵から逃げ切ったぞ!」という達成感のある走りである。
まとめると、古代の環境で人間が走っていた目的は2つある。
(1)食料のような生存の可能性を高めるものを探すために走る:ジョギングくらいの速さで(低心拍数)、きょろきょろと周囲に意識を拡散させて走っていたと考えらえる。
(2)獲物を捕まえたり、敵から逃げ切ったりするために走る:ランニングのような速さで(高心拍数)、1点に意識をフォーカスして走っていたと考えられる。
これらを踏まえると、
(1)走るコースは定めずに、周囲の景色を楽しんだり、新しいお店などを探すつもりで、きょろきょろしながらジョギングする
(2)目標を定めて、そこに向かって一気に走る。その他のことには意識を向けず、苦しくても途中で速度を落とさずにランニングする
という2種類の走り方が、望ましいと言えるかもしれない。
まずは(1)の走り方から始めて、後半は(2)に切り替えるとよいだろう。
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今日の練習:セカンド
明日、月曜日は練習が休みなので、ブログの更新もお休みします。
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