ブラフマチャリアについては「禁欲」と訳され、節度のない性行動をしないように戒めるものだと理解されることがある。
一方、ブラフマチャリアを「不過度」と訳して、性行動だけでなく、ごはんの食べ過ぎ、コーヒーやお酒の飲み過ぎ、仕事のし過ぎのように、広く一般的に「何かをやり過ぎる」ことに警鐘を鳴らすものだという理解もある。
スマホを触り過ぎたり、SNSをやり過ぎたりすることもここに含まれるだろう。
私は、後者の理解が好きである。
何に対して「過剰になるか」は人によって異なっている。
また、同じ人であっても、人生のタイミングによって何に「ハマるか」は違ってくるだろう。
ブラフマチャリアを一般的に捉えておけば、人間の多様な「過剰さ」について同じ視点から検討できる。
さて、このようなブラフマチャリアを実践し、過剰にならないためにはどうすればよいだろうか。
2つの方法が考えられる。
ひとつは「依存の対象を分散させる」というものである。
自分の心を慰めるために、「10」の慰めが必要だったとする。
そのとき、ひとつの手段だけに頼り、そこから「10」を得ようとすると過剰になる。
しかし、いくつかの手段に分散させると、過剰ではなくなるだろう。
たとえば、
・食事
・コーヒー
・お酒
・SNS
・セックス
という5種類の慰めがあるとして、食事だけで「10」を確保しようとすると、肥満になってしまうとする。
そのときに、それぞれの手段を「2」だけ楽しんで、合計で「10」を達成すれば、どの手段についても「過剰」にはならない、という考え方である。
これはなかなか現実的な方法であるかもしれない。
過剰にならず、異常性を現すことなく社会生活を送るために、すぐに実践できる具体的な方法と言えるかもしれない。
しかし、根本的な解決にはなっていない。
もっとも考える必要があるのは、なぜ自分には「10」の慰めが必要なのか、ということである。
「自分は何に疲れているのか」、「自分は何に傷ついているのか」等、自分自身について深く意識を向ける必要がある。
これを行うのが2つ目の方法である。
要するに、自分を眺める、内観するということになるだろう。
マイソールクラスでは、先生が自分のことを見守ってくれるけれども、それと同じ要領で、自分で自分に暖かいまなざしを向ける。
ジャッジをせずに、自分を眺める。
瞑想でもいいし、アサナをしながらの内観でもよいだろう。
「自分は何に苦しんでいるのか」。
それが分かれば、「過剰さ」は落ち着いていくかもしれない。
たとえば、どうにもならないことをどうにかしようとして苦しんでいる、コントロールできないことをコントロールしようとしていると気づいたら、イシュワラ・プラニダーナを思い出して、コントロールを手放してみる。
そうやって自分の苦しみが減らせれば、必要な慰めの量も減り、何らかの手段に対する過剰さも低減するだろう。
今日もそろそろ出発の時間である。
自分を眺めるセルフ・コンパッションの時間として、今日もマットの上に立つ。
いつも読んでいただき、ありがとうございます!