「隣人を愛せ」。聖句の中で最も有名な言葉の一つである。この聖句は難しい問いを突き付ける。「隣人」とはだれか。「愛する」とは。誰もが考えたのではないか。というわけで今回は、隣人を愛することについて修道場を例に考えてみたい。以前書いたように、修道場は4月から4人で生活をしている。つまり、修道場生活の場合、「隣人」とは、「隣の部屋の住人」のことに他ならない。果たして筆者は隣の部屋の住人を愛せているのか。

 

 

 一番近い隣の部屋の住人は筆者の妹である。彼女は住人の目の行き届かないところを整理整頓してくれている。彼女がいなければ「るんるん福音食堂のタッパー」が溢れかえっていることだろう。ここでは、先程の問は「妹を愛しているか」ということになる。「もちろんである」と書かないと都合が悪いので、そういうことにしておきたい。他人との関係よりも、身内との関係のほうがややこしいことはよくあることである。

 

 

次に近い隣の部屋の住人は、下に住んでいる大学1年生のトッシーである。島根の某キリスト教系全寮制高校出身である彼は、妹と榎本家長男ソラクンの後輩にあたる。ギターを持って修道場をウロウロしたり、琵琶湖を自転車で一周したり、とにかく若さが溢れている。映画やテニス鑑賞が好きで、よく居間でテレビをみているが、勉強をしているかどうかは知らない。筆者にとっては、勉強よりも週2回の食事当番をこなし、畑仕事のサポートをしてくれる方がよほど重要なので、「〇〇やってみない?」と勉強以外のことについては日頃から声をかけている。彼は自炊をはじめて2ヶ月であるが、味噌汁と鯖の味噌煮はほぼ完璧である。筆者は彼の作る鯖の味噌煮をこよなく愛している。

 

 

最後の住人は、斜め下に住んでいる榎本家次男のコウチャンである。コウチャンはよくわからない。なぜなら夜行性だからだ(と言っても飲み歩いているわけではない)。滋賀近江八幡から大学院のある京都北山まで、毎日電車通学している彼の日常はハードである。筆者が寝てから帰宅、出勤後に起床。このような状況が続くと、共同生活というより野生動物の観察をしている気分になる。晩御飯をラップで包み(この役目は妹のことが多い)、食堂のテーブルの上に置いておくと、朝起きたらなくなっている。姿は見当たらないが、コウチャンのスリッパの位置が玄関から部屋の前に移動している。「観察日記6月7日(水):深夜帰宅、夕食をとる。残ったご飯は冷蔵庫に入れている。無事に帰巣したようだ」。福音食堂からは、時々コウチャン用朝弁当が届けられる。つまりコウチャンは、よくわからないが、なぜか最も愛されている存在である気がする。私も弁当の配達人としてコウチャンに愛(?)を届けている。お返しにバスがなくて困ったときは、コウチャンに車で修道場に届けてもらっている。

このように、隣の部屋の住人には様々な人がいて、筆者は彼/彼女らを「それなり」に愛している。ただし正直に告白すると、私が最も愛を注いでいるのは住人でなく、畑に植えている野菜と花である。その中でもサンチュは非常に優秀で毎日のように収穫させてもらっている。他にもネギなどのハーブ類、ラディッシュ、トマトなど、修道場の畑は愛を注げば注ぐほど愛を返してくれる。

 

 

しかし私がこの野菜に注いでいる「愛」は、いうまでもなく、「愛を返してくれる」という条件のもとに成立する愛である。修道生との関係も同じで、鯖の味噌煮がうまいから愛する、車で迎えに来てくれるから愛しているのかもしれない。一方、神は無条件の愛を注いでくださっている。これは人にはなかなか出来ることではないが、修道場生活を通して、少しでも身につけたいと思っている。

 

 

最後に修道生への業務連絡を一つ。「僕が出張でいないときは、言わなくても畑に水をやって、彼らも隣人として愛してやってください」。