この作品の初出は4年前。当初事件は東京スカイツリーが発端だったが、今年大阪・関西万博を迎え舞台を関西圏に移した。
「ニューメリオン降臨」
改訂4版 前書き
2020年初頭から新型コロナウイルスの感染が世界に広がり、パンデミックすなわち地球規模の感染爆発となった。2023年第2四半期には収束の兆しが見え、のちに流行状況はほぼ沈静化したが、このウイルスの遺伝子が高頻度に変異することで、いつ何時ふたたび大流行するかもしれない状況だった。
この短編小説では、架空の病原因子によるパンデミックを描いてみた。虚構であるが故、現実とは異なる側面がありはするが、新型コロナウイルスのような病原体による感染爆発を防止あるいは抑止するためのアイデアを盛り込んだつもりである。
2025年2月8日
第一章 始まり
2025年半ば、世は大阪・関西万博でにぎわっていた。そんなある日、会場周辺で呼吸器を侵す奇病が発生した。当初は何らかの起因物質を吸引したことによるものと考えられたが、救護にあたった医療関係者や患者に接触した者に症状が伝播することが確認され、感染症であると認定された。関西はパニックに陥り、同年9月には重大な影響を及ぼす感染症としてWHOに報告された。
その症状から、1976年にアメリカ合衆国東海岸フィラデルフィアのホテルでの米国在郷軍人の総会後、参加者に死亡率が15%に達する肺炎が多発したレジオネラ肺炎(通称:在郷軍人病)を想起させたが、その病原因子であるレジオネラ菌は検出されなかった。何より、細菌の類どころかウイルスさえ発見されなかったのである。
その後の調べで、患者の肺胞のサーファクタント・プロテイン(以下、サーファクタント)と呼ばれる物質に異常が確認された。サーファクタントは肺で呼吸作用を行う最小単位である肺胞を支える重要な物質である。このサーファクタントの作用が減弱すると、肺胞が虚脱して呼吸困難に陥り、死に至るわけだ。
病原因子が同定されないまま時間が経過し、翌年の1月になっていた。それでも感染は急激に世界へと拡大し、WHOは未知の呼吸器感染症としてパンデミックを宣言した。
第二章 プリオン
同じく1月。ここは大阪大学微生物研究所の生体化学研究室。わたしは自分で言うのもなんだが、感染症一般に造詣が深く、その奇抜な発想から少なからず業績を残している。だがそれ故、ここではやや一匹オオカミ的存在である。
さて今回の事例について思考実験をしてみよう。
細菌の類やウイルスが見つからない。しかしそれら以外にも感染因子になるもの知られている。例えば、神経難病の一つでクイツフェルド・ヤコブ病と呼ばれる感染症は「異常プリオン」と呼ばれるたんぱく質への暴露後、患者の神経を構成する「正常プリオン」を次々と「異常プリオン」に転換し症状を引き起こす。むろん、「異常プリオン」は伝播する。
しかし今回の場合、感染因子と思われるたんぱく質の類は発見されていない。もしも、サーファクタントにも「異常サーファクタント」と呼べるようなものがあり、これが正常なサーファクタントを次々と異常化させるとしたら、症状もうなずける。だが、ここでそれを確かめるには・・・。
「島谷君、思案顔でどうした?」
声をかけてきたのは同じ研究室の渡辺主任、私の上司だ。研究所の中でも唯一胸襟を開ける人間だ。
「例の感染症です。患者の飛沫により伝播が成立すること、肺胞に異常な病変があること位しか分かっていません。
感染因子と症状発現のモデルは思いついたところですが、それを実証するにはどうしたらよいかと考えていたところです。」
そう言って、持論を渡辺主任に披露した。
「君らしく突拍子もないことだな。
有機物の構造解析はさておき、正常な肺胞と病的な肺胞の入手はそう難しくはない。構造解析の方も近くにつてがある。
どうだ、やってみるか?」
第三章 ニューメリオン
2月になった。
実験は正常な肺胞から抽出した正常なサーファクタントと患者の肺胞から抽出したサーファクタントを用意し、まずそれぞれの構造解析を行った。ここで患者由来のサーファクタントが界面活性作用を失っていることを確認した。ここまでは順調だ。
次に、正常なサーファクタントに少量の患者由来の病的サーファクタントを加え、時間を追って正常なサーファクタントが病的なものに転換されていくかどうかを調べた。両者の混合比はまずはあてずっぽうで1万対1とした。すると半日もかからないうちにすべて病的なサーファクタントに転化した。
感染から実際の症状が出現するまでの過程は、この実験からだけでは即断できないが半日程度と見積もっていいだろう。また、感染因子がこの「異常サーファクタント」であることは間違いなさそうだった。新種の感染因子の呼称は一般的に発見者に任されており、患者の肺に大量の「異常サーファクタント」が検出されることに因み、大量を意味する「numerous」から「ニューメリオン」と命名した。また、病名は「ニューメリア肺炎」と命名した。
さて、感染因子の同定が完了した時点で、次になすべきことは沢山あった。各国にこの「ニューメリオン」存在の実証実験の追試を依頼すること。感染防止策、ワクチン(と言えるものがあればだが)や治療薬の開発。そして、なによりなぜこのような感染爆発が発生したかを調べなければならない。
第四章 進捗
「ニューメリオン」実在の追試は各国で実施され、新種の感染因子として認定された。
「ニューメリア肺炎」の感染防止策としては、患者の飛沫が感染源と判明していたので、新型コロナウイルスの時と同様、不織布マスクで十分であることが確認された。この結果を踏まえ、全世界で不織布マスクの増産・配布が始まった。
ワクチンの開発は一筋縄ではいかず、各国の製薬メーカーが開発に打ち込んでいたが、完成には程遠い状況だった。治療薬についても同様で、対症療法すら見つからなかった。
時は2025年4月を過ぎようとしていた。
第五章 感染拡大防止策
再び大阪大学微生物研究所。「ニューメリオン」発見者の島谷と上司の渡辺主任が、「ニューメリア肺炎」の制圧方法について相談していた。
「現時点では、感染拡大の防止には、ニューメリオンを含む飛沫がどの程度の時間感染性を保持するかを確認し、その結果を踏まえた上での防御用マスクの使用が第一ですね、ワクチンや治療薬で突破口がない今は。」
渡辺主任が答える。
「全くそのとおりだ。ニューメリオンの活性がどの程度続くかは、すでに検証が始まっていて、おおよそ半日だそうだ。1日に概ね1枚のペースで付け替える必要があるな。これも追試の上、発表となる。」
「それにしても気がかりなのは、おおもとの感染源です。いったいどこから始まったのか?」
第六章 感染源
5月。
最初にニューメリア肺炎が確認されてから、感染拡大を時系列で追ってみると大阪、それも通天閣に辿り着くというのが大方の見解だった。通天閣?感染拡大の開始点としては異常である。関係機関は感染防止の完全防備の上、通天閣の捜索を始めた。
捜索開始から1ヵ月。通天閣の展望台の片隅に割れた試験管が見つかった。すぐさま試験管の調査が行われた。乾燥状態でのニューメリオンの寿命はおよそ半日なので、これをこのサンプルから見つけることは絶望的であった。しかしニューメリオンが失活していく過程で安定な中間産物が生成されることが知られていた。試験管にはその中間産物がわずかながら残っていた。これは何を意味するのか?
人為的な感染拡大:化学兵器のような?何のために?謎であった。
第七章 発端
遡ること3年。2022年12月、某国。その首都近郊に特殊兵器の製造を目的とした特務機関が設営されていた。そこではあらゆる生物兵器、化学兵器が研究・開発され、来たるべき戦争に備えていた。
このような兵器の開発の途上では、偶然にとんでもない産物が生成されることがある。肺を中心とする呼吸器系に関する研究の途上で異常なサーファクタントが発見された。初めは適切な防御措置をとっていなかったので、相当数の死者を生んだ。感染防御にマスクの着用が有用なことが判明すると、これを兵器とするための研究が始まった。
しかし、この兵器の威力が明らかになるにつれ、実戦に使用することは困難とされ、少量のサンプルを研究所のディープフリーザーに保管し、その存在は闇の中に忘れられた。
第八章 露見
2023年8月。米国のCIAは某国の動向を逐次監視してきた。生物・化学兵器についても予断を許せない状態である。
そんな中、あるセクションのエージェントが闇に葬られた恐ろしい化学兵器の存在を察知した。エージェントは敵国の研究所員を懐柔し、例のサンプルが入った試験管を東京で受け取り、代償として多額の現金を引き渡した。
エージェントは通天閣の展望台に上ったがそこで息絶えた。試験管は展望台の床に落ち砕け散った。某国のエージェントがサイレンサー付きのピストルで目的を達したのだ。某国の思うつぼだった。米国のエージェントは、某国のエージェントとともにその場から運び去られ、必要な証拠の隠滅がなされた。試験管の破片の回収は困難を極めたので捨て置かれた。
第九章 突破口
2025年7月。
再び大阪帝国大学微生物研究所。「ニューメリオン」発見者の島谷が「ニューメリア肺炎」の制圧方法について思考実験を行っていた。
正常な肺の肺胞の上皮細胞にはⅠ型とⅡ型があり、サーファクタントはⅡ型細胞から分泌され、その界面活性抑制作用により肺胞を膨らましている。呼気の際には横隔膜の挙上により肺胞が収縮し、吸気の際にはサーファクタントの界面活性抑制作用により収縮した肺胞が拡大する。こうして肺胞の収縮・拡大によって正常な呼吸が行われる。
サーファクタントの分泌は持続的で、そのままでは肺胞を埋め尽くし呼吸ができなくなる。このため、肺胞にはサーファクタントの除去を行い、適切な状態に保つ役割を持った肺胞マクロファージが存在する。
さて、この肺胞マクロファージの性質を転換して「ニューメリオン」をも除去するようにしてみたらどうだろう。足りなくなった正常サーファクタントについては新生児特発性呼吸窮迫症候群(IRDS)に対して用いられるサーファクタント補充療法で対応できそうだ。
渡辺主任がそばに寄ってきた。
「何か思いついたのかい?」
そこで今の思考実験について開陳した。すると、
「肺胞マクロファージの形質転換は難題かもしれんな。京都のiPS研究所などにあたってみるよ。」
「ありがとうございます。」
と礼を言って、やっと希望の光が見えたと喜んだ。
第十章 帰結
2026年8月。
あれから1年。肺胞マクロファージの形質転換は難渋し、未だ完成の域には到達していない。
街を行く人々はマスク着用が当たり前となり、いつまで続くのかと嘆くばかり。当分の間、ウィズ・ニューメリアの日々が続きそうだ。
完