人は自分に劣等感があるとなんとか優越感を得たいがために誰かを差別する。
ランキングをつけるというのもその一つ
実は私はある人におもしろいランキング付けをされそうになったことがある。

10年以上前のはなし
ある人に突然こう問われた
あなたの守護霊の次元は何次元ですか? と

意味のある質問に思えなかったのだが、真剣に聞かれたので、ふと24という数字が浮かんできたので24次元ですと答えた。

相手は不満げな顔をして自分の守護霊は7次元ですといった、そして7次元の守護霊はいかにすごいのかをとうとうと語った。
7次元の守護霊を認められて、以前勤めていた会社の社長に重用されて特別なポストを与えられたことも誇らしげに語った。

(なんちゅう会社やねん!)


その社長がその方の守護霊が7次元であることを教えてくれたとのこと、7次元の人は滅多にないすごいことで、あなたは素晴らしいと持ち上げられたそうだ。

私の守護霊が24次元であることはありえない世迷言であるといいたげに、その人は霊界の次元について講釈をたれてくださった。

ほとんど意味のある会話とは思えませんでしたけれど (まるで子供の○○ごっこのようである)、相手にとってはとっても重要な話題だったようでした。

べつにわたしは自分に守護霊がてもいなくてもどっちでもいい。霊がいるかいないかもどちらでもよい。

私は霊がいるいえばいるし、いないといえばいませんよね。という立場。

だから守護霊がいたとしても次元がどうのこのも関心ない
ただ何次元ですかと聞かれたから頭に浮かんできた数字を素直に答えただけだ。

それをインスピレーションと呼ぼうが、口から出まかせとよぼうが、妄想と呼ぼうがどうでもよい。

(インスピレーションといえばインスピレーションだし、妄想といえば妄想かもしれないし、口から出まかせといえばそうかもしれない。しかし、だれがその三つの差を区別できようか。)

ただあまりに

次元?(←意味なし) が

高すぎた?(←意味なし) 

ので相手には不満だったようだ

不満だった理由は自分が負けたから、自分のランキングが意外に低かったから。
私にはそれほど重要なことには思えないのだが、相手には自分のアイデンティティーを揺るがしかねないほど重要なことらしかった。


人は自分が安心するためにランキングをつける。

わかりやすいのは人種差別や民族主義だ。白人は優越人種でその他は劣等人種だとか、わが民族は素晴らしく他の民族は劣等であるだとか、自分たちは賢く他は愚民であるとか、、、 
そってどうなのよ? と思う。

博愛・平等・ワンネスを謳うスピリチュアル系の人でも中にはランキングへの欲求や差別心を隠し持っている人もいるようだ。

そういう人は基本的にはスピリチュアルかそうでないかで差別する。スピリチュアルがわかっていない人は次元が低いひとだよねと、まるで憐れみまで含んだ感情で人を見下す。ひどい場合だと自分は進化した新人類で、非スピ系の人たちは旧人類だよねとまで考えている人もいるようだ

(もちろんすべてのスピ系の人がそうであるわけではなく。ごく一部です。
カルトではランキングや差別をうまく利用します。我らは選ばれた集団でその他は愚民である。我らの仲間になれば愚民から抜け出せて選民の仲間入りである。しかも選民の中にもランキングがあってお金をたくさん払えばだんだんランキングが上がってゆきますよ、、、、 てな感じ。うん! なかなかうまいマーケティング&集金技法だ。でも良い子は真似しちゃダメよ!)


一方で、非スピ系の人の中には逆にスピ系の人々を『現実から逃避して幻想の世界で生きているかわいそうな人々』という目でさげすんでいる人もいる。


やれやれである。

わたしはどっちでもいいじゃない、

自分の好きなことを信じて生きてゆけばいいんじゃない、

いろんな趣味があっていいじゃない! と思う。
他人の趣味を云々すべきじゃないし、差別すべきでもない。
お互いに「放っておいてよ!」 でいいでしょう。


優劣や上下は基準があってつけられること
基準が真逆になることもある、そうすれば評価も真逆になる。


たとえば最近定着しつつある言葉「抽象度」という尺度がある。
この言葉を使い始め、広めた源流は苫米地英人氏という機能脳科学者といわれている。

抽象度が高い視点で物事をとらえられると物事を包括的に本質的にとらえることができる。また抽象度が高い概念をつかって物事を操作すると包括的に物事を変えることができる

だから近視眼的に物事をみてしまっている人に「それは抽象度が低い見方だよ。もっと抽象度を上げてみてごらん。とらえ方が変わるはずで、自ずと解決法もわいてくる、、、」
というアドバイスをすることができる。

しかし逆の尺度をもちだすとこうなる。
その尺度とは「具体性」だ(抽象度に対して具象度とでも呼ぼうか)


あまりに具体的な方策や行動ができていないひとに対してはこういうアドバイスができる
「君は具象度が低いね。いろいろ夢想ばかりしているようだが、ぜんぜん具体的な方策も行動も実績も出していないじゃないか。もっと地に足をつけて具体的に行動して具体的に実績を出しなさい。地べたにはいつくばって実務的なことをすることも必要だよ。具象度をあげなさい。」


私見ではあるが、最近は後者のアドバイスが必要な人が多いような気がする。

抽象度が低いね! といわれたら何か悪いことのように聞こえるが。
具体的だね!といわれたら誉められたように感じる。

具体的じゃないね!といわれたらけなされた感じがするが、
抽象度が高いね! といわれたら誉められたような気がする。

このように尺度が変われば評価も全く変わる。感じ方も変わる。
だから、何か一つの尺度でランキングをつけるのは無意味なことなのだ。

補足
抽象度の話をまとめると、高い抽象度を保ちつつ具体的に実務的に行動するというのが正解です。だから抽象度を高めればよいというのではなく、抽象度の幅を広げるといろいろ有利ですよ、、、、 ということ。