自分には価値がある、
自分が重要である、
という観念を持つことは生きる上で必須な事

その反面、他人を見下すということも 自然なこと
心の中で、他人をけなす、非難する、ということは
自我を守るために必要だからしていること
自然にやってしまっていること

なぜならば誰かと比較しないと自分の優越性は主張出来ないから
健全といえば健全
適度な見下しは健全なことなのです。


人は自分は他人より優れているという錯覚を持っている
それを「優越の錯覚」という

人は適度な「私は優れている」という勘違いがあることで明るく元気に生きることができる。

しかし、それが過度になると「性格が悪い、いけすかないやつだな」とまわりから思われて浮いてしまう。

また過度に周囲の人を見下してしまうので周りとうまくやって行くのが難しくなる。

逆に「優越の錯覚」が無いと自分が重要で大切な存在なのだと思えないので苦しい日常を送ることになってしまう。


ほとんどの人は健全な適度な「優越の錯覚」を持っている。
裏を返せば適度に周りの人を「軽く」見下しているということになる。
それはぜんぜん悪いことではありません。だってそれが無いと自己の尊厳が保てないから。

優越の錯覚を持てない人のなかに「解離」タイプがある。

それらの人々は、自分から解離して他人目線で自分を見る癖がある。
自分の感覚や考えより他人の感覚に敏感になってしまうのだ。
それらの人はネグレクトや虐待の成育歴がある人に多い。
生き残るために虐待する相手やネグレクトする相手の気持ちに常に敏感でなければならなかったとか
虐待される苦痛から逃れるために、見捨てられる恐怖から逃れるために自分の感覚を麻痺させて自分から離れてしまう
いずれも自分を守るという目的がある
しかし、そういう人たちは自分目線で生きられないのだ


基本的に普通の人は他人より自分が優れている、裏を返すと他人を見下すことで自我を保っている。

そこで解離した人が他人目線で自分を認知することをしてしまうと問題がおきる。

他人が自分を見下す目線で自分自身を見ることになってしまうのだ。(つまり自分を見下すということ)

だから自己嫌悪、自己卑下、低い自己評価という感覚を得ざるをえない。
そういう人生はとてもつらいものだ。


自分を取り戻すには解離している理由を探して解消するしかない。
たいていは記憶から欠落している恐怖やトラウマがそこにある。
それらを解消すれば他人に憑依して自分を見ることをしなくなる。

すると徐々に健全な「優越の錯覚」を取り戻すことができてくる。そして私は優れている、私は大切な存在であると思えるようになってゆく。


さて、過度で病的な「優越の錯覚」を持っているように見える人をたまに見かける。
実は、そういう人たちのほとんどは劣等感の塊なのである。

実はそれらの人々は「優越の錯覚」自体持っていない。だからその劣等感から逃げるために無理やり優越感をつかもうともがいているのである。

その手法は「やたらと自慢する」「他人をけなす」「他人を攻撃する」「他人を否定する」「差別する」「ランキングをつける」などである。

実は私はある人におもしろいランキング付けをされそうになったことがある。

その面白いランキング付けの話は次回、、、、 続く