自分の心の井戸のなかから湧いてくるものを分け与える。
それは特別なことではなくて自然なことだと思います。

見返りがいらないほどwant toなことをする。ただそれだけ!という感じはします。

例えばニンテンドーDSを一晩中やる子供はただそれをやることが喜びなわけです。
それ以外何もない。

DSを一晩中やって頑張ったから「金メダルが欲しいよ~」とは言わないわけです。

見返りをもとめた時点でそれはhave to (義務感、あるいは強迫観念)
そしてそれは資本主義の枠組み、、、

「わたしの生命時間と生命エネルギーを削った分だけ埋め合せしてようだいよっ!むかっ

いう感じでしょうか?

生命時間と生命エネルギー(要するに命のこと)は本来何者にも変えられない価値があるもののはず。

無形なもので対価を求めるならまだしも
お金に換算してしまうとその時点で経済の奴隷。

なぜならそれは「私の生命時間はお金で買えるほどの価値でしかないもの」と認めてしまっているということになります。

方便としてのお金は資本主義という枠で世の中が動いているのでやむを得ないとしても
それを本気でお金に換算しようとすると経済の奴隷ですね。

(注;わたくし共産主義者ではないですよ。念のため。)


ただ誤解して欲しくないのは

見返りを望まないとうことは見返りを断る、拒絶するということではありません

べつにくれるならくれるでいいよ~

くれないならそれでもいいよ~

というニュートラルなポジションです。