芦屋だより
  • 07Apr
    • 芦屋浜 宮川河口の桜

      臨港線が宮川を跨ぐ 夕凪橋で、ママジャリでやって来た女性が、私に「桜が素敵ですね!」と声を掛けて来た。今年の桜は、ここを見て歩くことにした。4日の昼のこと。夕凪橋から宮川河口を見る宮川西歩道から対岸の高浜町一丁目の、元芦屋大学グランド跡の市営住宅・高層住宅横の桜並木河口東岸浜風町から西岸の桜が最高に豪華である 若葉町の高層住宅この辺りでは(若葉町)桜並木は 4列 と豪華である河口から」上流を見る 手前の橋は若葉町と高浜町を結ぶバス道路 正面はゴロゴロ岳宮川の両岸は、いつもなら、この時期 芦屋マラソンで賑やかですが、コロナの影響で、静かな桜満開でした。以上

  • 04Apr
    • 「三十石」で 圓生の凄さを再認識

      「三十石」は明治初期 初代 桂文枝が仕上げた上方落語である。東京落語家の四代目 橘屋圓喬(1865-1912)が 一年半大阪に居た時、これを覚え、東京で初めて上演した。圓喬 亡きあとは、圓生の父がこれを得意とした。父の死後、六代目圓生は三十石を知っていたし、もったいないと思い、継承した。その間 圓生は上方の五代目松鶴師匠に教えを乞うたたと云われている。圓生の CDには、この三十石は 一時間じっくり聞かせるものと、三十分にコンパクトなもの(上のCD)二種類がある。それほど圓生はこの噺を得意にしている。三十石のあらすじ圓生の凄さを2,3書きます。1)この噺には、登場人物が多い(上のあらすじ参照))のです。江戸っ子の二人、伏見の船宿の主人・番頭、客人の大阪今橋の鴻池・小野小町・などを変名を使う客たち、乗船客の船頭、89才のお婆さん、なぞかけ遊びを仕切る上方の枚方のくわらんか舟の売り人なだなど・・・を見事声をかへ語る、中でも89才のお婆さんの声は見事。2)京ことば、関西弁がうまい 江戸っ子と くわらんか舟の売り人との喧嘩は圧巻。3)関西の地名、名所を淀みなく語る。 播磨の書写山、京都三条下がる先斗町、伏見の稲荷、宇治の平等院・黄檗山・中書島、淀の水車、大阪船場の今橋・備後町、南の道頓堀、西の松島遊郭など。4)歌もうたう。 船頭は船を出す時、淀川に出た時に舟歌を歌う。伸びのあるいい声である。生粋の江戸っ子 圓生が関西を知りつくしている。枚方をシラカタと云うのは、何ら違和感ない。云い尽くせない。六代目圓生の落語の奥深さが分かる。以上

  • 31Mar
    • 落語「三十石」の おち

      三遊亭圓生は非常に多くの噺を持っている名人と思っています。 おち にくすりを使った珍しい落語を見つけますた。上方落語の「三十石」です。圓生はうまい京都、大阪の方言で語ります。そしてユーモラスな おち をつけていました。さりげなく、くすりが出ます。すこし紹介しましょう。江戸っ子二人が、上方見物の旅にでる。京と 伏見から大阪へ、船を使う。夜に船頭の「出るぞー」の合図で三十石船は淀川にでる。五里ほどで、枚方に来ると、休息のため停泊すす。その間にくわらんか舟と云うしつっこい物売りが、船に上がり、客に強引に 酒くわらんか、餅くわらんかと叫び、買わせる。その強引さで、江戸っ子と喧嘩になり、早々に引き下がる。その後で、首のないのがいると、客騒ぎだす。江戸っ子はそれが「ろくろっ首」と見破り脇の下をくすぐると、首が元に戻る。何してたのだと質すと、そのろくろっ首の男は云う。「くわらんか舟が追い払われたので、買い損なって、腹が空いて、大阪までもたん。土手に赤提灯のうどん屋が見えたので、首を伸ばして うどんを食べていた所だった。」それを聞いた江戸っ子は云う。「そらあー うらやましいなー。 舌三寸、喉三寸 六寸しか 楽しめない。首が長いと、うめえものを長く楽しめてしあわせだなあ。」それに対して ろくろっ首の男は「二つ ええことはおまへん。くすり飲んだあとは長いこと にごうおまんねん。」以上です。

  • 26Mar
    • 小津安二郎と原 節子その2

      NHKR2のカルチャーラジオ「日本の映画の黄金期を支えた監督とスターたち」第6回の西村雄一郎氏の講演を聞いてです。どれも興味深いが、小津安二郎と原 節子についのところの感想を書いてみます。写真は「小早川家の秋」の冒頭のタイトル。出演者のバックに映し出された大阪道頓堀のネオン輝く昭和35年頃の光景です。説明はあとにします。東宝映画製作DVDより私が大学・新入社員の頃 見てきたスクリーンの原 節子は ずば抜けて きれいだった。小津が初めて原 節子を指名したのが「晩春1949年」である。原のギャラは高いとプロデューサーが難色を示したが、原は快く受けた。そして小津は原を見事に 美しく映し出した。作品は好評で、小津ー原の作品は続くことになる。そして「麦秋1951年」、そして最高の傑作「東京物語19553年」にいたる。演者は、小津作品のテーマはテレビのホームドラとは全く違う、「家族」に関してである。戦争が終わってまだ数年の時に、現在に通ずる 家族の崩壊 を問題提起している。「・・・家」を認識する時、大切なセレモニーが 結婚式、葬式である。それで小津映画には葬式が使われている。「東京物語」では、妻の葬式を終えた義父 笠智衆が戦死の次男の嫁 原 節子にしみじみと語る場面が白眉とされている。皆を泣かせるところです笠智衆が言います。。妙なもんじゃ。自分が育てた子供より いわば他人のあんたの方が よっぽど わしらに ようしてくれた。いやあー ありがとうよ。その後の作品、「東京暮色1957年」、「秋日和1959年」、「小早川家の秋1961年」で、同様のテーマが画かれる。これらの 3作品でも、小津は原に喪服を着せている。監督の意図につきて演者は語る。「小早川家の秋」の葬式で、原 節子と司葉子の喪服姿喪服姿の画面でも、小津はどこまでも 原を美しく撮り続けた。,そして、夫に先立だれた妻の役の原の再婚の見合いの時には、こういわせている。私」は これでいいのよ。このままで。このままが一番いいと思うの。   これは「小早川家の秋」でのこと。他の作品でも同じように繰り返されている。演者は「これは小津が原を結婚させたくない。いつまでも美しい原を望んでいたあらわれである。」と。「小早川家の秋」が二人の映画の最後のものとなっている。小津はこの作品の2年後、国立がんセンターで60才の誕生日に亡くなる。鎌倉の小津の自宅で営まれた葬儀で、原は「先生と もう一度映画作りがしたかった。それが心残りです」とと語り、号泣したと云う。これを境に、原は、引退挨拶することなく、銀幕からフェードアウトしていく。小津は横須賀線の北鎌倉駅近くの円覚寺に眠るが、そこから近い、浄明寺に隣接の地に住み、マスコミの目にふれることは」なかった。見事な大女優だった。演者は独身を貫いた二人の関係を「殉愛」と考察した。 納得。以上その後

  • 23Mar
    • 小津安二郎と原 節子

      映画評論家 西村雄一郎氏がNHK R2の「カルチャーラジオで、昭和の映画の黄金期を支えた監督とスターについて講演している。自らの著書・インタビュー、現地を歩き、監督・スy-たちのエッセー・著述、関係者の記憶などをもとに、語っている。黒澤明と三船敏郎、小津安二郎と原 節子、溝口健二と田中絹代、木下恵介と高峰秀子といったコンビで聞かせてくれる。知らないこと、内々のことを、演者みずからの考えも交えて、熱く語っている。聞き逃しもあるので、今からでも自由にきけます。お勧めします。j次回はこの中から小津安二郎と原 節子の話を書きます。乞うご期待。

  • 20Mar
    • こぶしとユキヤナギ

      昨日は20℃を越す暖かな一日だった。休学でいつも散歩する公園が、サッカーする小学生から砂遊びする幼児などで、賑やかだ。近くのこぶしの木、ここ数年花を付けなかったのが、今年の暖かさの刺激でか、全体に純白の花が咲いていた。急ぎ家に戻り、カメラを。植え込みのユキヤナギも一気に花をつけた。桜の開花が進んでいる。春の花は、新型コロナなど、どこ吹く風だ。以上

  • 18Mar
    • 新宿駅あれこれ

      数週間前だったか、NHKラジオ 深夜便に五木ひろし 17才のデビュー曲「新宿駅から」が流れていた。新宿生まれの私は恥ずかしながら知らなかった。(昭和40年発表)新宿駅から乗るんだよ。俺の故郷に行く汽車は。彼女に・・・私も「新宿駅から」乗って、高校、大学への通学をした頃があった。母、恋人のいる故郷を想う望郷の歌である。上野駅でない。山の手の新宿駅からなのだ。諏訪、松本、安曇野が故郷かな。昭和35年の新宿駅新宿歴史博物館「新宿風景」より引用私の新宿駅は未知の世界への玄関口だった。子供の頃の新宿駅は、周囲に高い建物はなく、それこそ外国映画に出て来る重厚な、歴史ある駅だった。JRと云わない、省線と云っていた。山手線、中央線、総武線に、私鉄の小田急線だけだった。それが虹の七色の駅と云われ、私鉄の京王線、西武線、地下鉄の丸の内線が入り、7線。現在は大江戸線、埼京線、湘南新宿線が加わる。駅舎の中は、天井が吹き抜けのように高かった。その一画に電報を扱う所があった。固定電話も我が家にない時代。就職試験の結果は電報で来た。そこには「ウナヘンマツ」とある。伯父に「至急返事をせよ」と云うことだと教えられ、急ぎ新宿駅に行き、電文をカタカナで書き、電報をおくった。た。昭和32年の大学四年生の時だった。60数年も前の事です。以上上の写真はその頃の新宿駅です。昔の新宿駅がやけに懐かしく思い出される。

  • 15Mar
    • 昭和46年の「くすりルンバ」に思う

      アントニオ古賀の「くすりルンバ」に出て来るくすり名に、少し触れておこう。三共60年史昭和35年12月発行より「クロロマイセチン(略クロマイ)と「アクロマイシン(略アクロ)の二つです・どちらも 戦後 間もない昭和25年ころに新発売された超有名なl抗性物質である。当時の日本は、食糧難で、衛生環境も悪い時代、伝染病の赤痢があちこちで集団発生した。激しい腹痛と下痢を起こす。これに対する特効薬が、クロマイであり、アクロであった。クロマイは一般名をクロラムフェニコールといい、米国のパークデービス社が、アクロはテトラサイクリンと云い同じく米国のレダリー社が開発した優れた医薬品である。最初に載せた上の写真は銀座4丁目の交差点の「クロロマイセチン」の夜間のネオン広告である。昭和30年前後のものであろう。当時は医療用医薬品の広告が街中でごく普通に目に留まった。だから医療用医薬品の名前も歌にごく普通に使われたのであろう。当然の事だが今は薬事法と云う法律で規制され、一般の人の目に触れる事はない。以上

  • 09Mar
    • 「くすり ルンバ」と云う歌に出会った

      新型コロナウイルスの重苦しいニュースの多い中、ラジオで明るい、躍動感の歌を聞いた。5日(木曜)午后8時からのMBSの「プカプカニュースと音楽」で。昭和の40年代の歌 「くすり ルンバ」のリクエストに、石田英司パーソナリティーは「ありますよ かけましょう」と次の歌詞が流れた。私は初めて聞く歌です。アントニオ古賀さんが1971年に発表した歌とのこと。高度成長期、大阪万博の翌年、日本がすこぶる元気だった時代に作られた歌だビタミン剤、強肝剤、かぜ薬、疲労回復薬、きず薬、造血薬、胃腸薬など、毎日テレビ、新聞の広告、街華街の看板で目に入って来た くすり 。誰でもが知っているくすりの名前です。だから歌詞に説明の文句はいらない、くすりの名前だけの歌が考えられたのであろう。日本人がみんな元気に心身ともに豊かさを目指して生きて来た、そんな時代の歌だ。当時を思い出した。新型コロナウイルスの早い終焉を願うばかりです。以上

  • 06Mar
    • イカナゴ釘煮 孫娘から

      イカナゴ漁が解禁になったが、大阪湾では僅か2日で終わった。今年も不漁なのだ。大学受験を無事クリアーした孫娘はKOHYOでイカナゴの釘煮を買い、プレゼントしてくれた、春到来、関西の風物詩だ。日本酒で早速馳走になる。イカナゴの釘煮は東京人は知らないと思う。釘煮なんて物騒な食品?を私は知らなかったので東京の友人のために、説明しておこう。上の写真でお分かりのとおり、佃煮です。関東ではもう少し大きめなものを 小女子と云っていたように記憶している。スズキ目、イカナゴ科の魚類。春先、この幼魚を大阪湾、播磨灘で漁獲。速やかに釜揚げ、味付け、煮込む。2-3cmの小魚が崩れないよう形を維持するのが難しいようだ。出来上がった形が 釘のようなので、釘煮と云うそうだ。製造に釘を使うような物騒ななことではない。そうそう。似ているチリメンジャコはイワシ類カタクチイワシで、全く違う。孫娘に ご馳走様でした。貴重なもの有難う・以上