「神道集」(貴志正造訳「東洋文庫94」1967年平凡社参照)には伊予三嶋大明神の縁起が次のように述べられている。
(写真は松山・道後温泉)
伊予の三嶋大明神はもともと橘朝臣清政といった。
彼は平城天皇(774~824)7代の孫で橘諸兄の末子。
四方に四万の倉を建て朝は500人の侍女、夕方は3000人の女官が世話をするほどの長者であった。
子の無かった清政が大和の長谷寺の十一面観音に祈ると、夢のお告げがあった。
清政夫婦は前世では牛だったが、その時に長谷寺に植えてあった菊を枯らしてしまった罪により子種が無いのだという。
観音が別の女に与えるはずだった子種をもらう代わりにその女に財産を与えるとの約束で男児が生まれ、「玉王」と名付けられた。
清政夫婦は財産を無くし貧しい生活となったが、ある日妻がワカメを取っている時に、玉王を鷲に攫われてしまう。
鷲に攫われた玉王は、阿波国板西郡の頼藤右衛門尉に拾われ5歳まで育てられた。
玉王は美しく育ったことで、5歳の時に阿波の目代に貰われ、7歳で阿波の国司、10歳で帝に貰われることとなった。
玉王は帝のもとで15歳で蔵人となり、17歳で大宰大弐に補される出世を遂げた。
玉王は四国から来た人が自分の噂をしている所に遭遇し、自分が鷲に攫われた子であることを知る。
玉王は帝に頼んで四国を領土として貰い、両親を探すために下っていった。
玉王は阿波国の頼藤右衛門尉の館で7日7夜の不断経を開き人々を集めたが、その中に鷲に子を攫われた人はいなかった。
次いで伊予邦三嶋郡尾田で不断経を開いたが、ここは昔、清政長者が住んでいた館であった。
山奥に不断経を聞きに来ていない老夫婦がいたため、役人に命じて2人を連れてくると、それが両親であるとわかった。
玉王が帝にそれを報告すると、帝は玉王を四国の惣追捕使とし、伊予国三嶋郡を領地として与えた。
玉王は伊予中将となったが、37歳の時実の両親が亡くなり、玉王は両親の墓所の上に神社を建て三嶋大明神として祀ったのであった。
どうやら両親と子供は無事再会することが出来たようである。
清政が大島を訪ねたのは息子が16歳の時とある。
一方「神道集」では、親子が再会したのは玉王が17歳以降のことになるので、どうやら大島から帰ってまもなく親子は再会で出来たようである。
ただ、「三宅記」では清政は玉王との再会の前に生前に三嶋大明神となっているのだが、「神道集」では死後のこととなっている。
何よりも「神道集」での清政は岩屋に住む程の極貧生活を送っており、果たして大島を訪ねる余裕があったかどうか疑問がわいてくる。
ちなみに「神道集」によると清政の先祖は平城天皇だということになっているが、平城天皇が生まれるのは推古天皇より100年以上後であり、やはり「三宅記」の時代とは時期が合っていない。