翌年、実正が三宅島に帰って島を見回ったところ、后たちが怒って島を壊そうとしている。
実正が「これは何事ですか。」と言うと、エガエ(伊ヶ谷)の后が答えた。
「八王子の母と二宮の母が境を巡って争っています。
八王子の御前は三嶋大明神の最愛の后で勇ましくいらっしゃいます。」
 
 
 
 
実正は八王子の后の前に参って、「これは何事ですか。」と言ったところ逆鱗に触れてしまい、恐れて白浜へ行ってこの事を三嶋大明神に報告した。
 
三嶋大明神は「私も機を見て…。」と言って雄山へ帰り、后たち王子たちを呼びよせた。
大明神は「実正よ、聞きなさい。
阿古は私の寝所である。
その境は東は桜渡りの川、北はアネマツ川にしなさい。
坪田と神着の境は后たちで決めなさい。
それぞれが出発して会ったところを境と決めなさい。」と言った。
 
「今はそれぞれ食い違いがあってはならない。
今後のことは何事も実正の言うことを聞きなさい。
彼が言うことは私が言うことだ。」
そう言って三嶋大明神は白浜へ帰った。
 
八王子の母御前と二宮の母御前は境を決める日時を約束した。
八王子の母御前は謀のたくみな人だったので、夜のうちに出発した。
二宮の母御前は浅はかな人で、夜明けに出発したため、坪田の東のスタ川で2人は行き会った。それよりスタ川を境と決めた。
 
 
三宅島の境界を決めた由来が述べられている。
現在三宅島には三宅村があるだけだが、かつては阿古、伊ヶ谷、伊豆、神着、坪田の5つの村であった。
1946年に伊ヶ谷村、伊豆村、神着村が合併して三宅村が発足。
さらに1956年には阿古村、坪田村も三宅村と合併している。
 
このうち伊ヶ谷村が出来たのは1471年で、「三宅記」が書かれた当時は無かったと思われる。
神着の八王子の母御前と坪田の二宮の母御前が境界を争ったというのだ。
 
 
 
 
阿古村と坪田村の境は立根橋(写真上)の辺りであった。
ここに述べられている「桜渡りの川」というのがどこなのかは不明であるが、ひょっとしたら立根橋が架かっているのがそうなのかもしれない。
 
 
 
 
阿古と伊豆の境となった「アネマツ川」であるが、伊豆にある「姉川」(写真上)のことだろうか。
伊ヶ谷村と伊豆村の境は三宅支庁の近くにある西川橋(写真)であるが、伊ヶ谷村が出来るに当たって村境が北に変更になったという。
 
 
 
 
神着と坪田の境「スタ川」も不明である。
神着村と坪田村の境は赤場暁(あかばきょう)であったが、伊ヶ谷村が出来る前は現在坪田にある「仏沢」であった。
仏沢のすぐ近くには「サタドー岬」があるが、スタ川の「スタ」とは「サタドー」を指しているのかもしれない。
 
 
 
 
壬生実正が白浜に行ったのは噴火からの避難であったと考えられる。
ということは、ここであえて村境を新たに定めたということが描かれるのは、噴火からの復興を意味してるのかもしれない。
 
 
 
三嶋大明神は、「また、物忌むべき事であっても、例え衆生に罪があったとしても、汝が必要ないと言うなら私は罪は無いと思うようにしよう。
また、汝が罪があると言うのなら、私も罪があると思おう。
この疑いは、清めを司る人が判断して清めればいい。
 
1.親の忌みは、75日であるので、1年間喪に服さねばならない。
2.師匠の忌みは、島々で判断して決めなさい。
3.血を流した場合は90日清め払い、100日慎みなさい。
4.死人を供養する人は80日清め払い、90日慎みなさい。
5.お産は33日もしくは45日慎みなさい。
6.出産の忌みは男子は3日、女子は7日。その後33日、神の前に参りなさい。
この他の穢れは汝の考えで判断しなさい。
 
私、后、王子の事は後世までも忘れることがないようにしなさい。」と恭しく言った。
 
 
ここでは物忌みについて述べられている。
人の死や出産を「穢れ」と見なし、一定期間室内に籠って謹慎するという風習が、平安時代まで見られた。
離島である三宅島ではそうした風習の一部は近代まで続いていたという。
 
 
また大明神は、「私はこの島を広くするために常に焼くだろう。
末世の衆生は恐れることはないと言い伝えなさい。
この島を焼く時は、私も神々も苦しみがある。
1日に3度の御供養をしなさい。
この事も末世の衆生に伝えなさい。
私はいつもは白浜にいよう。」と言って、白浜へ飛び、実正も供をした。
 
 
 
 
三宅島は火山の島であり何度となく噴火に見舞われている。
全島避難となった2000年の噴火が記憶に新しいが、記録の残る平安時代以降で噴火は17回を数える。
三宅島の島名の由来は「御焼け島」であるとも言われている。
三嶋大明神がその後も噴火が起きるということを予言しているが、その目的は島の拡張であるとの言い訳もなされている。
実際、1940年の噴火ではひょうたん山(写真一番上)、1962年の噴火では三七山(写真上)、1983年噴火で新鼻新山(写真下)が生まれ、新澪池が焼失するなど、噴火は三宅島の地形に大きな影響を及ぼしている。
 
 
 
 
白浜は伊豆半島の先端にある地で、三嶋大明神の后・伊古奈比咩命を祀る白浜神社がある。
三嶋大明神と壬生実正が白浜に渡ったという記述は、ひょっとしたら噴火からの避難を表しているのではないだろうか。
 
 
壬生の長男・実正に大明神は言った。
「汝らはあまりに早く凡夫となったようだ。
末世のために占いの方法というものを教えよう。
またこれは、この占いを解釈する文章である。」
大明神は実正に7日7夜かけて占いを教えた。
(絵は「道守」より)
 
 
 
 
「『雨ツミ』の亀の甲羅を焼きなさい。
その『雨ツミ』というのは、亀の中にある。
それを取ってその占いのように拵えて、桜の木の皮に火をつけ、この占いのように焼きなさい。
そして教えたように判断しなさい。
これを焼く時は占神と我々と后たちと王子たちを呼び奉りなさい。
 
 
 
 
私にものを問う時はいつでも焼かなくてはならない。
私の代官として汝が振る舞うべきやり方は、きっと実秀が教えておいているだろうから、そのように振る舞いなさい。
 
そもそもこの島は私の体であると知りなさい。
この地に生える草木は私の体の毛だと知りなさい。
また、あの島に仮にも住む者であれば、皆私の子供であると思うべきである。
この衆生を悩ます者には、私の方便をもって、それに恥を与えよう。
また、私の氏子ながら懈怠ある(怠ける)者には必ず重罰を与え懲らしめよう。
それでもなお懲りないで乱行するならば、白癩病でもって懲らしめよう。
このことは末世の衆生に伝えなくてはならない。
 
この地で物を作ろうと思った時は、私に諮る必要はない。
汝が山に登ってモチノキを探してよく剥いで、私の体と后、王子たちを作って、「その体のものをお作りします」と唱えて作らなければならない。
このことも実秀には詳しく教えているので、きっと汝にも教えているだろう。」
 
 
ここでは亀卜のやり方が述べられている。
亀卜とは亀の甲羅を焼いて出来たひび割れの模様を見て吉凶を占うというものである。
もっとも「この占いのように(此ノ占ノ様ニ)」とあり、詳しいことは避けられている。
おそらく亀卜のやり方は秘伝として壬生家に伝えられてきたのだろう。
だが現在でも亀卜が三宅島で行なわれているかどうかは僕は知らない。
 
 
さて、それから長年が過ぎた。
文武天皇元年(697年)より大宝元年(701年)まで、島々の后・王子たちは大明神の御誓願の通りに、衆生の願いを満足させようとそれぞれにお願いを立てて、それぞれその姿を石に写した。
王子たちは皆薬師の御姿、大島の后は千手観音、新島の水戸ノ口の大后は馬頭観音、神集島(神津島)の后は如意輪、三宅島の天地今宮の后と八丈島のイナバエノ后は聖観音、エンカイノ后とクボタノ后は女体として顕れた。
これらはわずかながら衆生の諸願を満足させようとするがためである。
(写真は三宅村臨役場臨時庁舎向かいの馬頭観音)
 
 
 
 
推古天皇2年(594年)に三嶋大明神が垂迹された際に、妃や王子、側近も垂迹・化現している。
それから100年経ち壬生実正の時代には残りの后や王子も垂迹・化現したという。
いずれも亡くなったことを表しているのであろう。
ここに登場する妃のうち「エンカイ」の后と「クボタ」の后は初めて登場する名前である。
おそらくは三宅島の伊ヶ谷(イカイ)の后と坪田の后のことであろう。
芦ノ湖の大蛇から守った三姉妹の長女と次女のことである。
女体というのは女神のことだと思われる。
「三宅記を読む13」で長女は水戸ノ口ノ大后を嫉んで入水し、伊ヶ谷の石になったと語られているから、その際に亡くなったものだと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。
 
三嶋大明神が日本に再上陸した時から彼に従っていた3人兄妹がいる。
若宮、剣、見目である。
若宮と見目は三嶋大明神と同じ時に亡くなっているようなのだが、剣については結局どうなかったは述べられていない。
彼が仕えている新島の后が亡くなっているのだし、ここで述べられてしかるべきである。
忘れられているのか、あるいは意図的に省かれたのか…。
剣はもともとその正体が不動明王だと述べられているので、不動明王に化現しているはずである。
 
 

その後数年を経てまた、壬生御館は三嶋大明神のもとへ参って「承ったことはみな、実正に申し置きました。

今はお暇を頂きたいと思います。」と言った。

(写真は三嶋大明神を祀る富賀神社)

 

 

 

すると大明神はこう答えた。

「以前、私は汝に島々の后・王子たちに仕えよと言った。

大島の『次郎王子スクナイ所』には雨ワカミコトに嫁ぎ生まれた『ウラベイ』という子がいる。

彼に大島を預けて太郎王子の後見と定めなさい

また、新島は宮作尊に預けて2人の王子と后の後見と定めなさい。

神集島(神津島)はヌク嶋の大別当に預けて、后と王子の後見と定めなさい。

そしてこの島(三宅島)と沖の島(八丈島)は汝の計らいで何事もやってよい。」

 

壬生御館は島々を回って言いつけの通り定めてきた。

そして三宅島に帰ると実正に言った。

「これは大明神より手印として賜ったものである。

この中には御体がある。

天竺にて大明神が後に父王の后となる女房に産ませた王子を、継母が憎んで武士に頼んで恒河川(ガンジス川)に沈めさせたことがあった。

その王子が父の大明神に姿をお見せしたいと川原の石の上に御体として立たせたものを、大明神がお取りになり、御笏の中にお入れになって、一時も肌身離さずお持ちになっていたものだ。

それを大明神が私・実秀に手印としてお与えになった。

それをお前に与えよう。

末代まで伝えなくてはならない。

ゆめゆめ奉公を疎かにしてはならない。

なぜならこれは薬師様の御体であるからだ。」

 

こうして実正に手印を与え、537歳となった御館は、「私は故郷へ帰る」といってそのまま行方知れずとなってしまった。

 

 

三嶋大明神の後を継いで三宅島を支配した壬生御館実秀も引退することとなった。

ここでは御館は三宅島のみならず他の島々の支配体制をもきちんと整備したことが語られている。

 

壬生御館は、三嶋大明神とは違い神ではない。

だが、それでも537歳と長寿を保ったと述べられている。

以前、アマノコヤネノ命の年齢が実際の10倍ではなかったかと指摘したが、御館もそうだと考えると実際は53、54歳だったと思われる。

これなら息子の壬生実正は2~30代で、御館の跡を継いだこともなんら不自然は無い。

 

「三宅記」は、三嶋大明神の来日を孝安天皇元年(B.C.392)、島造りの開始を孝安天皇21年(B.C.372年)、死去を推古天皇2年(594年)と具体的な年で挙げている。

その結果三嶋大明神や御館の年齢を必要以上に引き延ばす必要が出てきたのだろう。

なお壬生御館の「御館(みたち)」とは屋敷や館の意味の一般名詞である。

つまり壬生御館とは、御館に住む壬生の殿様といったニュアンスになる。

537歳というのは、初代の壬生御館から、島の支配体制を確立した壬生実秀までの代々の壬生御館の業績を1人に集約した結果なのかもしれない。

 

 

 

 

 

また、壬生御館実秀はかつてウト浜(有渡浜)にて天人の中に交じって舞い踊った東舞と駿河舞とを実正に教えた。

 

この舞の時に楽人たちが歌うべき歌。

 

1番:聞きしよりよする浪こそやさしけれ松の木ずえはいつとだえせずや

2番:うと浜のみどりの影に立ち寄りて袖を誰ぞ舞いあそぶなるや

3番:みどりうえて我まいこよと招かれてとそをたれて舞いあそぶなるや

(以下略)

 

 

以下、「拍子打つ人の歌う歌」、「入り舞の拍子」、「大明神の御代官に舞まう時の拍子打つ人の歌うべき歌」、「坪田の宮の舞に拍子打つ人の歌」、「八人王子の腹御前の舞の時拍子打つ人の歌」、「水戸の口の大后の舞の拍子打つ人の歌」、「天地今宮后の舞の拍子打つ人の歌」を御館は実正に教えた。

 

ここで言う「大明神の御代官」とは壬生氏のことを指している。

続いて三嶋大明神の后を称える「坪田の宮」、神着の「八人王子の腹御前」、阿古の「天地今宮后」の歌が登場している。

しかし残りの1つ「水戸の口の大后」は新島にいる后を称える歌である。

本来であれば、伊ヶ谷の后神社(写真下)の伊賀牟比売命が入ってしかるべきである。

 

 

 

 

水戸の口の大后は、「三宅記を読む12」では芦ノ湖の大蛇の尻尾が左目に当たって失明したということが述べられているが、それはイガイ(伊ヶ谷)の浦でのことであった。

また、「三宅記を読む13」には、水戸の口の大后が伊賀牟比売命に嫉まれ、結果的に伊賀牟比売命が入水してしまうというエピソードが描かれている。

これらのことから、新島と伊ヶ谷には何らかの確執があったことをうかがわせる。

ひょっとしたらかつて新島から三宅島に渡ってきた人たちが伊ヶ谷に住みついたなんてことがあったのかもしない。

 

三嶋大明神の亡くなった後、壬生御館は遺された后・王子に仕えていた。

三嶋大明神の遺言に従い、御館は雨増ノ御前(雨マスノ姫)を娶り子息を1人設けた。

御館は嫡男を「壬生実正」と名付け、大明神の御前に参って報告した。

大明神は喜んで実正を呼ぶと「汝はよく注意して実秀(壬生御館)の言うことをよく聞いて、私の后や王子を安置するように。

常によくよく精進する時には、私の姿が見えなくても、声だけで何事も諫めるつもりだ。」と言った。

実正は承ると喜んで帰り、父の実秀に報告した。

 

 

 

 

実秀は実正にこう言った。

「お前はよく聞きなさい。

大明神の代官として有るべき様は、まずよくよく垢離を取って、清き山に入りなさい。

水を汲んで頭からか被って髪を3つに分けて、左の髪を8ヶ所、右の髪を7ヶ所、後ろの髪を6ヶ所結び、左の髪には水を8回、右の髪には7回、後ろの髪には6回掛けなさい。

それから下冠を着けて、上には桑の木の根の真っすぐなのを切って皮を剥き、角を2つ立てて額につけて、葉の茂った薜の葛(マサキノカズラ)の葉を襷としてかけなさい。

凡夫の火を用いないで(清浄な火を用いて)、月の最初の15日間は大明神の后・王子にお仕えし、終わりの15日間はこの装束を着替えて凡夫の姿に戻りなさい。

毎月この装束は取り換えるのだ。」

 

 

壬生御館実秀の息子の壬生実正が登場した。

壬生氏はその後、三代目・実安に引き継がれ、その子孫は三宅島に現存している。

壬生氏は御笏神社など三宅島の神社の神主を代々務めているのだが、ここではその神主としての儀式のやり方も述べられている。

装束に関してかなり詳しく述べられているが、「三宅記」の作者はおそらく壬生氏の関係者にきちんと取材して書いているのであろう。

もっとも現在でも同様の儀式が行なわれているのかどうかは僕は知らない。

 

三嶋大明神はまた、若宮・見目、壬生御館に言った。

「(この島を)4つに分けて、末の代に后と王子の宮殿を定めたいと思うがどうだろうか。」

すると、皆は「どのようにもお計らいください。」と答えた。

 

大明神は「島を4つに分けて、それぞれ神着、伊豆、阿古、坪田と名付け、(后の3姉妹のうち)長女は伊豆に入海があるのでここに祀り、次女は坪田の湖の並びに峰があるのでそこに祀り、三女は神着の浦をシトリ(椎取)と名付けそこに祀りなさい。」と言った。

(写真下は椎取神社の泥流に埋もれた鳥居)

 

 

 

 

「また、阿古には末の代に私の宮をつくりなさい。」

 

重ねて壬生御館に、「私の姿を石に写しておいて、よくよく精進があった時にだけ、声だけで現れて諫めよう。」と言った。

推古天皇2年(594年)1月8日正午、大明神は凡夫の姿を石に写して垂迹となった。

 

 

「垂迹」とは仏がその事跡を可視化するという意味で、仏が「神」の姿で顕れるということである。

具体的には富賀神社の御神体が作られたということを表している。

これはおそらく、三嶋大明神が亡くなったことを遠回しに表しているのだろうと思われる。

この後、三嶋大明神の家族や側近も「垂迹」あるいは「化現」「顕れ」たと述べられているが、同様に亡くなったということなのだろう。

なお、「化現」「顕れ」とは神が本来の仏の姿に戻るという意味である。

 

ちなみに本文では1月8日に死ぬと予言したのが「推古天皇5年1月3日」。

実際に死んだのは「推古天皇2年1月8日」となっており、時間が逆である。

単に書き間違えで、実際には同じ年の出来事なのだろう。

 

 

三嶋大明神の2人の王子も姿を石に写して垂迹となり、8王子の御母御前も十一面観音に化現した。

見目は大弁才天として顕れた。

若宮も姿を石に写して隠れようとした時、壬生御館はこう言った。

「大明神や后、王子の御事を末世の衆生にどのように伝えればよいのでしょうか。」

若宮は「あなたが大明神にご奉仕なさる前の出来事については大明神の語られたことを、また、あなたがご覧になった事を書き残しておいて、末世の衆生に伝えなさい。」と答えた。

そうして、若宮は普賢菩薩の姿になられた。

 

壬生御館は島々を訪ねて后や王子たちにこのことを伝えると、彼らは三宅島に渡り三嶋大明神と会って様々な話をして島へ帰っていった。

 

 

ここで垂迹となったとされる2人の王子は、三姉妹の王子たちのうち三嶋大明神に付き添っていた王子のこと。

伊ヶ谷の后神社に祀られている長女・伊賀牟比売命の王子と、坪田の二宮神社に祀られている次女・伊波乃比咩命の王子・ウラミ子である。

三嶋大明神ら、三宅島の基礎を築いた人たちがこの世を去り、その後は壬生御館に引き継がれたのである。

 

 

 

 

そうして、年月が過ぎ去った。

三嶋大明神は壬生御館に言った。

「ここにもすでに凡夫がわずかに現れている。

私の姿を彼らに見せることは彼らを恐れさせることでるから、凡夫としての姿を石に写して垂迹としたい。」

 

 

凡夫というのは神々で無い一般人のことである。

ということは、この頃には三宅島に移り住む人が現れてきたということを意味している。

人が増えてくれば神々がうかつに姿を現すわけにはいかない。

そこで、人の姿を模った石像を作って神として祀ったということなのだろう。

現在、富賀神社の末社の脇に置かれている石「三嶋様」が、それなのではないかと言われている。

 

 

 

 

推古天皇5年(597年)1月3日、大明神は壬生御館を呼んで言った。

「私はすでに命が尽き、8日に隠れる(死ぬ)。」

 

午の時(正午)頃、雄山に登って御館に言った。

「汝は神集島(神津島)の大別当(左大臣)の娘『雨マスノ姫(アメマスノ姫)』を娶って子を設け、后・王子の守護をせよ。」

そして、「これを手印(証拠)に与える。」と言って、天竺で王子の姿を彫り入れて肌身離さず持っていた石の笏を壬生御館に与えた。

 

「私は今から500年過ぎて日本の守護神となるだろう。

毎月1日と15日は私の縁日である。

また、8日は私の本地である薬師如来の日である。

この日に私の社に参る者には、諸願を満足させ、

日の難・月の難を取り除き、病の難に於いては薬師の化現を持ってこれを治す。

また、他の国からこの地を奪おうと襲って来る者には、私は鎧・腹巻・弓箭となって難を払うだろう。

海中に荒い風が吹いて波の難があっても、私の神通力を持って鎮めるだろう。

また、命が終わるとき、薬師如来の誓いを持って浄土へ引導するつもりだ。」という御誓願があった。

 

 

いよいよ三嶋大明神にも寿命が訪れた。

三嶋大明神が島を作り始めたのは紀元前372年のことなので、島には968年いたことになる。

実に1000年に渡って三宅島を治めた三嶋大明神の大往生である。

 
 

その後三嶋大明神は壬生御館に「あそこの土地に、戸田(へだ)というところの石を持ってきて築地をつくりたい」と言った。

すると御館は「たやすい事です。」と、昼は人目を避けて夜に入って船7艘で築地を作った。

 

こうして大明神の住居が出来上がった。

 

 

戸田とは、伊豆半島の西の北にある地(現・沼津市戸田)で、いわゆる「戸田石」の産地である。

ここから三宅島にまで石を運んだということなのだろう。

ただ、「あそこの土地(アレ成地)」というのがどこなのかがわからない。

大明神の住居があった富賀神社辺りだろうか。

 

 

ある時、大明神は若宮に「いつぞやここに渡ってきた時に取った鰹(カツオ)をまた取って来て欲しい」と言った。

若宮は「我々は神通力でいともたやすく取ることが出来ますが、末世を生きる者には、遥か沖でも、この島でも鰹を取ることは覚束ないでしょう。」と答えた。

 

大明神が「どのようでも、お前の思う通りに」と言ったので、若宮はその前の汀の石に渡って西の方を向き、手招いたところ、潮と共に鰹が群がってきた。

(絵は「道守」より)

 

 

 

 

大明神が「さあ取ろう。」と言ったところ、若宮は「壬生御館に取らせますのでご覧ください。」と答えた。

若宮と壬生御館は話し合って船を用意し、鹿の角に金属を細く曲げて麻の紐で竿につけたものを手に持って海へ投げ入れたところ、たちまち魚が食いついた。

 

大明神は西の御門からこれをご覧になった。

そうして船1艘分の魚を取ってきたので、若宮は島々の后や王子に魚を献上した。

 

 

 

 

三嶋大明神が鰹取りの講習会を開いたということは、三宅島にも伝わっている。

若宮が鰹を招いた汀の石というのは、阿古の富賀浜にある「御前丸島(おんんめまるしま)」(写真上)のことである。

また、その様子を大明神が眺めた「西の御門」というのも、富賀浜に鳥居が建っている場所である。

 

 

 

 

現在でも御前丸島では豊漁祈願が行なわれ、漁師がこの島に船をつけることは禁じられているという。

なお、若宮が壬生御館に伝えた釣りの方法と言うのは、疑似餌を用いるもので、いわゆるルアー釣りの元祖であったようだ。