三宅島に住んでいた頃、東海汽船の客船には東京と島との往復のためにそれこそ数限りなく乗っていた。

それが、本土に帰ってからというもの、すっかり乗ることはなくなった。


 

それが東海汽船がアニメ「SPY×FAMILY」とコラボしての東京湾ナイトクルージングを行なうという。

しかも、乗る船は「さるびあ丸」だというではないか。

これはぜひとも参加したい。


 

とある日の夜、横浜港大さん橋へ。


 


 

18:00、さるびあ丸が入港してきた。


 

 

 


 

 

さるびあ丸は普段は大島・利島・新島・式根島・神津島航路に就航している。

三宅島・御蔵島・八丈島航路は橘丸がメインなのだが、時々さるびあ丸が就航することもあった。

ただし、僕らが乗っていた2代目さるびあ丸は2020年に引退。

現在の3代目さるびあ丸は2020に就航したばかりで、まだ乗ったことはない。

しかも、新しいさるびあ丸は小笠原にも就航するという。


 


 

ナイトクルージングは大島航路の横浜〜竹芝桟橋間を利用して行なわれる。

約2時間の船旅。

これは楽しみだ。


 

 

 

いよいよ乗船。

 

「SPY×FAMILY」とのコラボとのことで、6階のデッキには特設ステージが組まれている。


 


 

また、DJが航海や夜景の案内をしてくれている。

 

 

 

 

 

さらに船内のあちこちに「SPY×FAMILY」の装飾がなされている。


 

 

 

フォージャー一家のパネル。


 


 

12月22日に公開の映画のポスターもある。


 


 

キーワードラリーもあり、船内のあちこちにあるキーワードを集めると、ステッカーがもらえる。


 


 

コラボグッズ売り場もあった。


 

こうしたコラボイベントも楽しいが、やっぱり僕は船内がどうなっているかが気になる。


 


 

2等和室はかなり綺麗になっている。


 


 

2等椅子席。


 


 

特2等の二段ベッド。


 


 

食堂は混んでいたので、利用は諦めた。


 


 

自動販売機コーナー。  


 


 

ねこ船長は2代目さるびあ丸の頃からいた。


 

もちろん、夜景も楽しんだ。


 


 

横浜の夜景が遠ざかっていく。


 


 

30分ほどでベイブリッジを潜る。


 

 

 

 

 

やがて、東京湾アクアラインのうえを渡る。


 


 

東京の夜景が見えてきた。


 



東京タワー。


 


 

お台場のフジテレビ。

馴染みの光景だ。

 

レインボーブリッジがすぐそこに。


 


 

ここを潜るのも久しぶり。


 

 

 

 

 


 

船旅もあと少し。

竹芝桟橋が見えてきた。


 


 

すでに黄色い橘丸も停泊しているようだ。


 


 

20:00、竹芝桟橋到着。


 


 

せっかくなので竹芝桟橋も見てみた。


 


 

この光景も懐かしい。


 


 

出航の案内が電光掲示になっていた。


 


 

充実したナイトクルージングだった。

だが、やっぱり2時間というのは短い。

次はもっと長旅を体験したい。

三宅島にももう5年近く戻っていない。

そろそろ三宅島に行く旅行計画を立てたいと思う。


 

ちなみにノベルティや購入したグッズはこんな感じ。

 

 

 

 

 

伊豆旅行の帰りに三嶋大社に立ち寄った。

 

 

 

 

三嶋大社の祭神は三嶋大明神。

これは「大山祇命(おおやまつみのみこと)」と「積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)の2柱のことである。

事代主神は、以前「三宅記を読む」で紹介したように、三宅島を始めとする伊豆諸島の島々を生んだ神様であり、

三宅島の富賀神社の主祭神でもある。

つまり、三嶋大社は三宅島とも関係が深い。

そもそも「三嶋」というのが伊豆諸島を指しているとのことだ。

 

 

こんな幟が立っている。

 

 

 

 

三嶋大社は伊豆に流されていた源頼朝が崇拝し、源氏再興を祈願した神社である。

 

 

神池と厳島神社。

 

 

 

 

北条政子が勧請したと伝えられる。

霧がたかれていて幻想的。

 

総門。

 

 

 

 

矢田部盛治像。

盛治は1854年の東海大地震で倒壊した社殿を復興した人物とのこと。

 

 

 

 

神門。

 

 

 

 

舞殿

 

 

 

 

本殿。

すでに行列が出来ていたが、もちろん並んでお詣りをしておいた。

 

 

 

 

これが2023年初詣となった。

今年1年も良い年でありますように。

本年も「あしたば白書」をよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

この1月、伊豆半島を訪ねた。

伊豆半島というと、本土で伊豆諸島に一番近い場所。

久しぶりに島を見てみたい。

 

 

そこで伊豆半島の南岸へ足を運んだ。

尾ヶ崎ウィング展望台に到着。

アロエの花が鮮やかだが、ここからは伊豆諸島がよく見えるらしい。

 

 

 

 

見えた、大島だ。

 

 

 

 

利島、鵜利根島、新島。

 

 

 

 

かすかだが式根島(写真)や神津島も見えた。

 

 

 

 

だが、肝心の三宅島は見えなかった。

なんでも、新島の左側に見えるらしいのだが…。

 

これは何とも残念なことであった。


 

 

「三宅記」の物語を「古事記」に当てはめようとすると、どうしても無理が生じる。
例えば、事代主命の父・大国主命は日本の出雲を支配していた神であるのだが、「三宅記」の三嶋大明神の父はインドの帝王である。
「日本書紀」によると大国主命の舅・素戔嗚尊(須佐之男命)は神々の住む高天原を追放された際にまず韓国に降り立ってから出雲に渡ったとある。
当時の出雲と韓国の間に交流があったことは間違いないが、大国主命がインドまで勢力を伸ばしていたとは到底思えない。
 
それに、「古事記」における事代主命の様子はとてもではないが、三宅島や伊豆諸島を切り開いていった三嶋大明神と同一人物とは思えない体たらくぶりである。
 
 
事代主命は一説には恵比寿のことだと言われている。
恵比寿は七福神の1人として良く知られているが、釣り竿を持ち時に鯛を釣り上げていることから、漁業神として祀られている。
「古事記」の国譲りの際に事代主神が釣りをしていたことから、両者が結びついたと考えられる。
(写真は恵比寿駅前の恵比寿像)
 
 
 
 
一方、同じ七福神の大黒天も、大国主命と同一視されることが多い。
つまり大黒天と恵比寿は親子の神ということになる。
(写真は出雲大社の大国主命と因幡の白兎像)
 
 
 
 
大黒天はもともとはインドの神マハーカーラ(カーラバイラヴァ)のことである。
サンスクリット語で「マハー」は「偉大」、「カーラ」は「黒」を意味していることから日本語では「大黒天」となった。
そして大黒と大国の音読みが同じということから大黒天は大国主命のことだとされるようになったのである。
(写真はネパールの首都カトマンズのダルバール広場のカーラバイラヴァ像)
 
 
 
 
マハーカーラはヒンズー教ではシヴァ神の別名でもある。
シヴァというとヴィシュヌ、ブラフマンと並び3人の最高神(トリムルティ)となっている。
実は事代主神の父親がインドの帝王だというのは、あながち間違いではなかったのだ。
 
 
 
「三宅記」の主人公・三嶋大明神は、日本神話の事代主命(ことしろぬしのみこと)と同一人物だとされている。
そのことは、富賀神社の由緒書きにもしっかりそう記されている。
ところが、「三宅記」には両社が同一人物であるということはおろか、事代主命の名前すらまったく登場していない。
いったいいつから両者は同一視されるようになったのだろうか。
 
三嶋大明神は古くは大山祇命(オオアヤマツミノミコト)のことだと考えられていたが、江戸時代に平田篤胤が「古史伝」で事代主命説を取り上げたこともあって、明治時代に事代主命であると考えられるようになったという。
大正時代に再び大山祇命説が有力になると、三嶋大社では1952(昭和27)年に両神を御祭神であるとした。
 
 
ところで事代主命とはどのような神様なのだろうか。
 
事代主命は「古事記」に登場する。
出雲を平定した大国主命が、神屋楯比賈命(カムヤタテヒメノミコト)を娶って生まれた子が事代主命とされている。
この神屋楯比賈命は「古事記」のこの箇所にしか登場しない神様であるため、詳細は不明である。
なお「先代旧事本紀」では事代主命の母親は高津姫神となっている。
その高津姫は「古事記」では多岐都比売命(タギツヒメノミコト)となっており、須佐之男命と天照大御神の誓約(うけい)によって生まれた宗像三女神の1人とされる。
神屋楯比賈命というのも多岐都比売命の別名とも考えられるから、事代主命は大国主命の息子であるだけでなく須佐之男命と天照大御神の孫にもなるということだ。
 

 
 
この事代主命の活躍が描かれているのは国譲り神話においてである。
天照大御神の使いとして出雲にやってきた建御雷神と天鳥船神は大国主命に出雲を譲るように迫った。
それに対して大国主命は、「我が子、八重事代主神がお答えしよう。
しかし彼は鳥狩り・魚釣りのために美保の埼(美保関)に行ってまだ帰って来ていない。」と答えた。
天鳥船神が事代主命を呼び寄せて聞くと、事代主命は「かしこまりました。
この国を天照大御神に差し上げましょう。」と答えて、乗っていた船を踏み傾けると、天の逆手を打ってその船を青柴垣(あおふしがき)に変えるとその中に隠れてしまった。
(写真上は出雲大社)
 
 
天の逆手とは呪術の一種だという。
青柴垣とは、常緑の小木で塞ぎ囲った垣のことで、現在でもこの神話にちなみ美保関の美保神社では青柴垣神事が行なわれている。
 
一読すると、事代主命は出雲を天照大御神に献上すると、そのまま入水自殺したようにも思える。
だとしたら実に情けない神様である。
あるいは小さな部屋に謹慎・監禁されたようにも思われる。
いずれにせよ、このことは事代主命が天照大御神に完全服従したことを表しているのだろう。
 
 
「日本書紀」の記述でも概ね同じであるが、第2巻には事代主命が八尋熊鰐(大サメ)に姿を変えて三島溝樴姫(あるいは玉櫛姫)のもとに通い蹈鞴五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)を設けたとの記述がある。
蹈鞴五十鈴姫命は後に神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと)=神武天皇の后となり、2代・綏靖天皇を生んでいる。
ちなみに「古事記」では事代主命でなく大物主神のエピソードになっている。
大物主神は鰐ではなく丹塗矢に姿を変え、三島溝咋(みしまのみぞくい)の娘・勢夜陀多良比賈(せやだたらひめ)の女陰を突いたため娘は妊娠。
富登多多良伊須須岐比賈命(ほとたたらいすすきひめのみこと/後に比賈多多良伊須氣余理比賈(ひめたたらいすけよりひめ))を生んだとある。
姫が神武天皇に嫁いで綏靖天皇を生むというのは同じである。
 
 
事代主命は三宅島を作った神というだけでなく、現在の皇室にもつながる重要な神様であると言える。
 
「三宅記」に興味を持ったら、次はその主な舞台となる三宅島をぜひとも訪ねてもらいたい。
三宅島は伊豆諸島の中では大島、八丈島に次ぐ3番目の大きさである。
しかしながら観光客数では両島に大きく水をあけられている。
僕は大島と八丈島にも行ったことがあるのだが、両島は観光地としてかなり整備されている印象を受けた。
それに対し、三宅島は大きく後れを取っていると言わざるを得ない。
 
しかし、だからといって三宅島に魅力がないわけではない。
「三宅記」が、三嶋大明神の縁起という体裁を取っているのにも関わらず、実際は三宅島の記録が大半を占めているように、かつての三宅島は伊豆諸島の中でも中心的な存在であったのだ。
 
僕はこの「あしたば白書」でこれまでもずっと三宅島の魅力を伝えられるよう発信してきたが、果たしてうまく伝えられたであろうか。
 
 
何はともあれ、まずは三宅島へ足を運ぼう。
 
 
三宅島へ行く方法は2つある。
1つは空路。
調布飛行場から三宅島空港まで新中央航空が1日3便飛んでいる。
所要時間は約40分だが、片道17,500円かかる。
 
 
 
 
もう1つは海路。
竹芝桟橋から大型船橘丸が毎晩運航している。
22:30に竹芝桟橋を出航した船は翌朝5時に三宅島に到着する。
所要時間6時間半だが、夜船なので時間を有効に活用できる。
また、値段も一番安い2等席なら7,170円と、飛行機の半額で済む。
三宅島には南西の錆ヶ浜港、東の三池港、北西の伊ヶ谷港と3つの港があり、天候や風によって到着港が変わってくる。
 
 
 
 
金曜の夜船で三宅島に到着すれば、土曜日は朝から遊ぶことができる。
帰りは飛行機なら夏は16:00が最終なので、ほぼ丸2日三宅島を楽しむことが出来るだろう。
(船は13:45頃出航。)
 
 
 
 
宿は島唯一のホテルである「ホテル海楽」を始め、民宿やペンションが30近くある。
食事では海の幸を楽しむことが出来る。
最近、健康食材として注目されている明日葉も。
 
 
 
 
僕自身三宅島を離れて4年が経とうとしている。
そろそろ旅行者として三宅島に帰りたくなってきた。
 
 
 
 
「三宅記」の舞台は三宅島内に点在している。
それらを紹介することで、“聖地巡礼”の参考にしてもらいたい。
 
三宅島には3つの港があるが、メインの港は阿古の錆ヶ浜港であるので、ここを起点としたいと思う。
 
 
 
 
そもそも錆ヶ浜とは、芦ノ湖の大蛇を退治した剣が、その剣の錆を洗ったことに由来している。
 
 
 
 
阿古には、三嶋大明神の3人の従者を祀った神社がある。
 
錆ヶ浜港から三宅島一周道路に出て、左(北)にしばらく進むと右手に火戸寄(ほとり)神社がある。
祭神は迦具突智神(カグツチノカミ)だが、「富賀神社の四社の宮」とされ見目のことだそうだ。
 
 
 
 
元来た道を南に戻ると、錆ヶ浜港を過ぎてすぐ右に剣を祀った差出神社がある。
 
 
 
 
さらに進むと右手に若宮神社の案内があるので、その方向に進むと見目、剣の兄・若宮を祀った若宮神社がある。
 
 
 
 
三宅島で最も重要なのが富賀神社である。
 
 
 
 
祭神は事代主命(コトシロヌシノミコト)、妻・伊古奈比咩命(イコナヒメノミコト)、王子・阿米津和気命(アメツワキノミコト)の3柱。
 
 
 
 
事代主命は三嶋大明神のことだとされている。
「三宅記」に登場する「天地今宮」の「今」の字は「分」の誤記だといわれ、これが阿米津和気命のことだと言われている。
ただ、「三宅記」では三嶋大明神の妻ということになっており、伝承が錯綜しているようだ。
 
 
富賀神社から海へ抜けると、富賀浜がある。
そこの海岸に立つ鳥居は「西の御門」。
三嶋大明神が若宮、壬生御館の鰹釣りの様子を眺めた場所だ。
 
 
 
 
そして、海の中に立つ岩が「御前丸島(おんんめまるしま)」で、若宮が鰹を呼び寄せた場所とされる。
 
 
 
 
阿古から東の坪田へ。
右手にアカコッコ館があるが、その少し手前の左手に旧・二宮神社がある。
三嶋大明神の后の3姉妹の次女・伊波乃比咩命と、その子・二ノ宮を祀った神社だが、現在は遷されている。
 
 
 
 
遷された先は坪田の郵便局の向かいの二宮神社である。
 
 
 
 
そのまま東に進み空港に向かうと、その少し手前の左に御嶽神社の鳥居がある。
3姉妹の三女・佐伎多麻比咩命の子・夜須命を祀る。
ここには現在、建物等は残っていないので、そのまま先へ進もう。
 
 
 
 
三池浜を通り過ぎると右手にサタドー岬がある。
ここは、神着と坪田で境界争いをした際に双方の境と決まった場所である。
 
 
 
 
しばらく直線が続くがスピードを出しすぎないように注意して進もう。
 
 
 
 
神着地区に入る。
神着とは、伝承によると三嶋大明神が初めて上陸した地、つまり「神が着いた」地だ。
 
左手に椎取神社がある。
ここは、2000年噴火で泥流に埋まったままになっている鳥居と拝殿が有名だ。
 
 
 
 
右には新たに建てられた拝殿がある。
 
 
 
 
見所はその奥。
岩の下に本殿がある。
 
 
 
 
神着から海に降りていくと湯ノ浜漁港がある。
 
 
 
 
ここには「飯王子神社・酒王子神社」がある。
芦ノ湖の大蛇退治に功績のあった安寧子と満寧子の兄弟を祀る。
 
 
 
 
再び三宅島一周道路に戻る。
壬生氏の屋敷は「島役所跡」となっている。
現在も壬生さんが住んでいるため中は公開されていないが、庭からいろいろ見ることが出来る。
 
 
 
 
その向かいにある御笏神社は大明神の后の三女・佐伎多麻比咩を祀られている。
他にも14社の摂社・末社がある。
 
 
 
 
さらに西に進み伊豆に入る。
御祭神社・薬師堂は見所の多い寺社だが、「三宅記」のお話とはとくに関係がない。
ただ、ここの原生林は噴火の影響を受けておらず、三宅島でも最も古いものが残っているそうだ。
ひょっとしたら三嶋大明神の時代もこんな感じだったのだろうか。
 
 
 
 
最後は伊ヶ谷。
伊ヶ谷港に向かって降りていく。
后神社は三姉妹の長女・伊賀牟比売神を祀る。
 
 
 
 
伊賀牟比売神は王子を抱いて伊ヶ谷の海に入水し岩となったというので、浜にある岩のどれかがそうなのだろう。
 
 
 
 
伊ヶ谷から南に進むと阿古に戻ってくるが、これで三宅島を一周したことになる。
三宅島は1周38キロ。
み(3)や(8)け(K)と覚えやすい。
どこにも寄らなければ車で30分ぐらいあれば1周出来る。
三宅島にお越しの際はレンタカーを借りるも良し、タクシーをチャーターするも良し。
神話と火山と自然にたっぷりと浸ってもらいたい。
もちろん、今回紹介した場所以外にも見所はたっぷりある。
詳しくは三宅島観光協会のホームページ をご覧頂きたい。


 
27回に渡って「三宅記」の内容を紹介してきた。
「三宅記を読む21」の東歌と駿河舞については省略したが、それ以外はほぼ全文を忠実に紹介している。
わかりにくい部分があったとしたら、そのほとんどは原文のせいであるが、僕の古典の理解力が乏しかったことが原因かもしれない。
 
 
「三宅記」が執筆されたのは平安時代から鎌倉時代にかけてと言われているが、読んでの印象としてはかなり古いのではないかというものだった。
というのも、この「三宅記」の文体は極めてシンプルで、装飾や技巧はほとんど施されていない。
そのため辞書などを使わなくても比較的簡単に読み進めることが出来る。
「古事記」(712年)や「風土記」(713年~)に近い印象を受ける。
そんなことから僕は「三宅記」が書かれたのは平安時代中期(1000年頃)ではないかと考えている。
 
 
 
 
当初僕は「三宅記」を三宅島の壬生氏に伝えられた秘伝の島の記録だろうと思っていた。
ところが読んでみての感想は、あくまで「物語」であるということ。
伊豆諸島の島名の由来や、亀卜、物忌みのやり方なども述べられてはいるのだが、由来譚としての側面は非常に薄い。
そこが「古事記」や「風土記」とは異なっている。
 
 
いずれにせよ興味を持たれた方はぜひ原文を読んで見ることをお勧めする。
 
国会図書館デジタルコレクションに、次の2本の写本が収録されている。
 
道守
 
また、「三宅記を読む」を読んで三宅島を始めとする伊豆諸島に興味を持った人には、ぜひ実際に足を運んでもらいたい。
「三宅記」に描かれた三嶋大明神を始めとした神々の足跡を直に感じることが出来るだろう。
 
さて、その後は三嶋大明神、后たち、王子たちの御姿はおぼろ気にも拝むことが出来なくなった。
しかしながら壬生氏は島で大明神たちに仕え続けていた。
このように実正は年月を送っていたが、子息を1人設けた。
壬生実安と名付けた。
(写真は富賀神社)
 
 
 
 
実正は実安に大明神の手印を譲って言った。
「神は本地(仏の姿)を顕すことをお喜びになる。
凡夫が本源を顕すことには憚りがある。
三嶋大明神と后たちのことは、若宮が書き残して壬生御舘に与えてくれた。
また、壬生御館が従ってから後のことは、大明神の仰せも后たちの仰せも壬生御舘が書き残している。
壬生御舘から4代までは、かたじけなくも大明神の御諫めがあった。
また、后たちの仰せによって若宮が壬生に教えてくれた。
 
こうして壬生氏が御代官となって手印をお取りになった。
末代まで伝えなくてはならない。」
 
また、実安に伝えて、「私の年は123歳となった。
私は大明神の御前に朝夕いるつもりだ。」といって、かき消すように見えなくなった。
 
 
「三宅記」も大団円となった。
最後に壬生実正の息子・実安が登場した。
実正は父・御館同様に息子に遺言すると姿を消したという。
これは実正が死んだとも考えらえるし、三嶋大明神のいる白浜に移り住んだとも考えられる。
いずれにせよ、三宅島は壬生氏の3代目に継承され、この後も代々壬生氏が三宅島を支配していくだろうことが述べられる。
 
冒頭には大明神たちの「御姿はおぼろ気にも拝むことが出来なくなった(御姿ををぼろぐにも拝まれ玉はず)」とあり、それまで盛んに描かれていた三嶋大明神の神託は登場しない。
「三宅記」が完成したのは「三宅記を読む26」の記述から伊ヶ谷村が出来た1471年(室町時代)より前で、おそらく平安時代から鎌倉時代にかけてと推測されている。
「三宅記」最後の記述は「三宅記を読む23」にある大宝元年(701年)よりだいぶ後のことだと思われるのだが、実正が123歳という記述があるので、おそらく西暦800年前後の出来事だろう。
もし仮に「三宅記」の執筆が平安中期だとすると、「三宅記」の内容は執筆時より100~200年前の出来事である。
現在でいえばちょうど幕末から大正時代にかけての出来事だ。
僕の曾祖父母の時代なので、記録や記憶も比較的残っている時代である。
だから、あまりにも荒唐無稽な話は書けなかったのではないだろうか。
執筆当時すでに神や仏の「声」を聞くなんてこともなくなっていたのだろう。
 
 

 

  
 
翌年、実正が三宅島に帰って島を見回ったところ、后たちが怒って島を壊そうとしている。
実正が「これは何事ですか。」と言うと、エガエ(伊ヶ谷)の后が答えた。
「八王子の母と二宮の母が境を巡って争っています。
八王子の御前は三嶋大明神の最愛の后で勇ましくいらっしゃいます。」
 
 
 
 
実正は八王子の后の前に参って、「これは何事ですか。」と言ったところ逆鱗に触れてしまい、恐れて白浜へ行ってこの事を三嶋大明神に報告した。
 
三嶋大明神は「私も機を見て…。」と言って雄山へ帰り、后たち王子たちを呼びよせた。
大明神は「実正よ、聞きなさい。
阿古は私の寝所である。
その境は東は桜渡りの川、北はアネマツ川にしなさい。
坪田と神着の境は后たちで決めなさい。
それぞれが出発して会ったところを境と決めなさい。」と言った。
 
「今はそれぞれ食い違いがあってはならない。
今後のことは何事も実正の言うことを聞きなさい。
彼が言うことは私が言うことだ。」
そう言って三嶋大明神は白浜へ帰った。
 
八王子の母御前と二宮の母御前は境を決める日時を約束した。
八王子の母御前は謀のたくみな人だったので、夜のうちに出発した。
二宮の母御前は浅はかな人で、夜明けに出発したため、坪田の東のスタ川で2人は行き会った。それよりスタ川を境と決めた。
 
 
三宅島の境界を決めた由来が述べられている。
現在三宅島には三宅村があるだけだが、かつては阿古、伊ヶ谷、伊豆、神着、坪田の5つの村であった。
1946年に伊ヶ谷村、伊豆村、神着村が合併して三宅村が発足。
さらに1956年には阿古村、坪田村も三宅村と合併している。
 
このうち伊ヶ谷村が出来たのは1471年で、「三宅記」が書かれた当時は無かったと思われる。
神着の八王子の母御前と坪田の二宮の母御前が境界を争ったというのだ。
 
 
 
 
阿古村と坪田村の境は立根橋(写真上)の辺りであった。
ここに述べられている「桜渡りの川」というのがどこなのかは不明であるが、ひょっとしたら立根橋が架かっているのがそうなのかもしれない。
 
 
 
 
阿古と伊豆の境となった「アネマツ川」であるが、伊豆にある「姉川」(写真上)のことだろうか。
伊ヶ谷村と伊豆村の境は三宅支庁の近くにある西川橋(写真)であるが、伊ヶ谷村が出来るに当たって村境が北に変更になったという。
 
 
 
 
神着と坪田の境「スタ川」も不明である。
神着村と坪田村の境は赤場暁(あかばきょう)であったが、伊ヶ谷村が出来る前は現在坪田にある「仏沢」であった。
仏沢のすぐ近くには「サタドー岬」があるが、スタ川の「スタ」とは「サタドー」を指しているのかもしれない。
 
 
 
 
壬生実正が白浜に行ったのは噴火からの避難であったと考えられる。
ということは、ここであえて村境を新たに定めたということが描かれるのは、噴火からの復興を意味してるのかもしれない。