東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・11
この本は、「鉱業停止を求める農民の鉱毒反対闘争」が、「軍備拡張を推進する明治政府」と対決していたため、と解釈するとともに、当然のことながら、明治29年の異常気象に基づく渡良瀬川の大洪水のためだ、とも解釈しています。
そして、かなり詳しくこの自然現象の説明をしています。しかし、異常気象はいつの間にか鉱毒に変化しているのです、引用しましょう。
「この年は異常気象のつづく年であった」
「梅雨は7月になっても降りつづき、時として豪雨となった。20日の豪雨では、渡良瀬川は約5メートルも増水し、堤防を流れた鉱毒水は流域一帯の農地に冠水した。こうして、鉱毒被害は確実に拡大・激化の方向をたどった。豪雨は8月になっても降りつづき、7日から15,6日にかけてまたしても洪水となった」
「8月下旬になると暴風雨が続き、30日から31日にかけて、渡良瀬川は約6尺(1.8メートル)あまりも増水した」
「9月8日に至って、豪雨降りしきる中で渡良瀬川が氾濫し、堤防は各所で決壊した。翌9日も豪雨は止まず、渡良瀬川の水量は2丈4尺(約7.2メートル)にも達し、決壊した堤防からは濁水が大音響とともに流域のうちを襲ったのである」
「被害地域は1府5件11郡136か町村、被害農地面積4万6723ヘクタール、被害総額2782万9,856円にのぼった。総額は足尾銅山の年産額の10倍に達したのである」
皆さんは、この記述を素直に受け入れることが出来ますか。
著者が説明しているように、この年は異常気象のために、例年とは比較にならない面積の田畑が洪水で冠水したわけです。したがって、その被害が鉱毒(汚染物質)に原因していると断言することは、完全に間違いです。
足尾銅山が排出していたに違いない公害汚染物質は、採取した銅鉱石の分量には比例します。しかし、洪水による冠水の被害面積と比例するはずはありません。
にもかかわらず、ここでは「鉱毒被害は確実に拡大・激化の方向をたどった」と説明し、被害農地面積も被害総額も、すべては古河鉱業鉱毒に責任があるように説明しています。
明治25年6月の正造の演説によれば、この時点での鉱毒被害面積は、1650ヘクタールほどでした。この数字は、23年秋の大洪水がもたらしたものです。
大洪水があれば、普通の年ならこの程度の被害があるとはいえます。
しかし、明治29年に被害面積がその30倍近くに達したからといって、それが鉱毒に原因するのだとは結論できるわけがありません。
科学的・客観的に記述するなら、明治29年の被害面積は、異常気象による大洪水に原因する、とすべきです。
つまり、著者たちは、明らかに根拠のない嘘をついており、読者はなんとなくそれにだまされているわけです。