正造の晩年の孤立・13
孤立の深まりと近づく死とともに、正造は、「世の中はみんな間違っているが自分だけは正しい」という思い込みを、いや増していきました。
明治45年2月4日に、土屋七蔵宛の手紙で正造は次のように書いています。
「雪は白し、南天の実は赤し。人々の心もかくさえあれば泰平にして、皆々無事満足に暮らせるものを。何とも黒き雪を降らせることの多き今の世の有様なれば、一層万事にご用心のほどを。栃木町方面より、無野心生」
自分は野心がなく、白い雪のような人間だと自己宣伝していますが、何とおめでたい人でしょう。
明治45年4月5日には、栃木県安蘇郡界村の永島礼七・糸井藤次郎、役場職員に宛てた手紙に、栃木県人に対して次の不平不満をぶつけました。
「嗚呼、栃木県は10年の以前に人心は滅び、今は形も滅びたるを知らざれば、あわれにも気楽な顔しているものなり。佐野町の人々よ、宇都宮の人々よ、足利の人々よ、小理屈と我利我利論の楽観のみの論はあれども、まじめに研究せられた涙の調べは少しもない。栃木方面にて、沿岸回復運動員より」
自分は何かを真面目に研究しており、堕落した栃木県人を回復させる運動もしているというのです。
真面目な仕事をしてお金を稼ぐことをせず、自分の妻さえ養えないため彼女を家から出して自活させ、自分の生活費はすべて他人から恵んでもらっているという乞食のような人間が、いったいどうして渡良瀬川の沿岸人民を救済できるのでしょう。