正造の晩年の孤立・12 | 足尾鉱毒事件自由討論会

正造の晩年の孤立・12

孤立を深めた正造は、「教えんとして失敗せり」という反省などどこ吹く風、谷中の残留農民たちの普段着にまで文句をつけます。


大正元年11月17日に、島田宗三や川島要次郎に宛てた手紙はこうです。


「とにかく、ありのままをよしとす。作るはよろしからず、なかんずく、谷中人民の衣服は仮小屋相当を要せり。仮小屋で錦衣を着てはおかし。間明田粂治氏この間の装いは谷中の残留農民の風采でない。町場の商人体に見えた。染宮氏は相応に見えました」


孤立が深まるとともに、自分は農民の指導者であるという幻想が、ますます強くなっていったようです。
大正2年2月4日に東京の巣鴨館から島田、川島宛に出した手紙になると、もう教祖のご託宣になっています。


「日本死しても天地は死せず、天地と共に生きたる言動をもってせよ。天地と共に久しきに答えよ。今はまずこの老いた不肖の言を信ぜられよ。よく信ぜば復活疑いなし。この言を疑えば復活せず。見よ、既往より見よ。日本政治家の浅薄、13ヵ年以前より予の忠言を信ぜずして、未だ悟らずして今日の有様なり」


「自分の忠告を聞かないから日本の政治は駄目になった」との発言は、正造という人間のお粗末さ加減をよく示していますが、この誇大妄想ぶりは、同日に出した逸見斧吉への手紙にも次のような文章で繰り返されています。


「正造断言す。今日の形勢といえども、予の投薬一ぷくを国家が用いるときは、百病直に全快せん。人心たちまち復活、20億の負債といえどもまたかくのごとき無算極まる悲観なしです。けれどもけれども、嗚呼、予は政治家にあらざるなり」


それにしても、自分を全く客観視できない正造という人は、何とおめでたいお馬鹿さんなのでしょう。