正造の晩年の孤立・8 | 足尾鉱毒事件自由討論会

正造の晩年の孤立・8

明治43年の1月に、正造はなぜか同じような自己反省の手紙を斧吉に2通出していますが、まずこれを紹介しましょう。一つは宇都宮から、もう一つは下野村役場から出しています。


「脳が疲れて前後いたします。逸見様と先日孔子の話の時、私卒然として孔子を指して俗物の聖なりと申せしは、全く失言です。俗事を行う聖人と言えばよろしいのです。いったい、私多年政談で過激の言葉をもってせし悪弊で、たびたびこの失言が多いことを、今更思い当たりました。しかれども過ちは改めんと努めますから、何分・・・」(8日付け)


「わたくし久しく俗事に苦慮して、この2,3ケ月トンダ俗物となり、イヨイヨ俗化いたして自ら驚くほど困ります。これよりまた聖書の一節も謹読いたしたいと存じます。・・・正造も今は自分で知れるほど俗人になりましたから、今後早く出京してまたまた汚れを洗いたいです。一昨夜の夢の中に菊枝様(斧吉夫人)に何か叱られる所を見まして心配でした。またまた改めて精々いたします」(21日付け)


翌44年8月8日、佐野の斉藤という家から斧吉に宛てて正造は次の手紙を出しています。


「正造は従来、物質上の霊物に感ずる事狂人の如し。あるいは樹を愛し、あるいは石を愛し、山を愛し、川を愛し、しかして人に到らず。近頃ようやく人を愛することの教えを受けて、人を愛するに到って無形の霊に介す。およそ人を愛する近道に入りしは、貴下および諸兄の厚き賜物なり。今や、この神仏の境に入れば、たちまち物質の霊を忘る」


孔子のことを聖人とか俗物とか決め付けようとしたり、この2,3ケ月で俗物になったが聖書を読んで聖人に戻りたいとか、狂人の如く樹を愛しているとか、人を愛せなかったのにあなたのお陰で愛せるようになったとか、なんともくだらない話ではありませんか。こんな子供じみたことを言うようでは、たいした人物ではないことがすぐわかります。