正造の晩年の孤立・7 | 足尾鉱毒事件自由討論会

正造の晩年の孤立・7

最晩年まで正造を見捨てなかった逸見斧吉や島田宗三さえ、彼にはっきりと反対の意志表示をしていた事実を紹介しました。


しかし、この両者に対する正造の対応は、全く異なりました。困った時にはいつでもお金を恵んでくれていた斧吉にはしきりに自己反省のポーズをとりましたが、貧乏な農民にすぎない宗三やその仲間たちには、死ぬまで上からのお説教を続けたのです。


明治の終わり頃からの斧吉宛の正造の手紙を、何通か紹介します。


まず、逸見斧吉が、「谷中村の百姓のために麦の種を買ってやってほしい」と言ってお金を送ってきたとき、自伝の冒頭で「予は下野の百姓なり」と豪語していたはずのこの男は、日本橋の静岡屋という旅館から斧吉に、次のような礼状を書くのです。


「わたくし智恵が少ないのです。毎年、麦蒔きに種のない人があるということを、はじめて知りました。ああ、正造はいまだ富豪の子で、神の子でない。貧者の情に暗い。・・・下情を知るの難きこと、この一事にても分かるのです。5ヵ年以上も谷中にいて、この一事に考えが及ばぬのには、いやはや呆れ、とんと恥じ入るのです」


この8月30日まで、栃木県立博物館で、「予は下野の百姓なりー新聞に見る民衆政治家・田中正造ー」展が開かれていました。

9月20日からは、横浜の日本新聞博物館で同様の展覧会が開催されます。


しかし、彼は本当に「百姓」の心を持っていたでしょうか。

正造は名主の家の長男に生まれ、若い時は名主役を勤めていたので、「百姓」とはいえません。

実際はこの手紙に書いたように「富豪の子」にほかなりません。貧者のことも下情のことも知らないというのが本音のはずです。

上記の展覧会の主催者たちは、正造の言葉だけを信じて騙されているのです。


正造は「5ヵ年以上も谷中にいて」と書いていますが、これも変です。実際は、ほとんど東京他各地に出かけているので、谷中にいることはあまりないからです。