正造の強気と弱気と二枚舌④ | 足尾鉱毒事件自由討論会

正造の強気と弱気と二枚舌④

正造が代議士を辞め、明治天皇に直訴した明治34年になると、活動家たちもほとんど彼から離れていき、思いどうりにはいかなくなります。


そのため、この年の彼の手紙は、被害民への同情などどこかへ行ってしまい、言うことを聞いてくれない彼らへの鬱憤があふれています。野口春蔵への手紙には次のような愚痴がみられます(明治34年4月22日)。


「正造の申すこと今日ほど(被害地の人々が)信ぜざることなし。しかるに(東京など)無害地の人々はようやくにして信じ来たり候。・・・悲しむべきは被害地人のしだらなし。予ら流悌(涙を流して)これを救うの術に苦しめり」


よほど頭に来たのか、理性などどこ吹く風、その6日後には野口を含む活動家10人に宛てて、被害民一般に徹底的な悪口を叩き、同時に少数の彼ら活動家を徹底的に褒め上げた次の手紙を書くのです(同年4月28日)。


「被害地の馬鹿は自家の権利を縮めることのみに汲々とし、請願の上京を怖れ、上京を悔い・・・嗚呼、これらの愚、嗚呼、これらの馬鹿に貼付すべき良薬なし。・・・(彼らに反し)諸君は沿岸の先覚なり、沿岸の神なり、仏なり。よって諸君の責任や甚大なり」