正造の強気と弱気と二枚舌② | 足尾鉱毒事件自由討論会

正造の強気と弱気と二枚舌②

前回は、「公害反対運動をする被害民は駄目人間ばかりだ」と決め付ける、自信たっぷりで強気の手紙を紹介しましたが、なんとその翌月は正造の気分は大きく変化し、全くの弱気に転化するのですから驚きます。


明治32年8月に野口春蔵他公害反対運動活動家たち16名に宛てた手紙は、「自分は指導者の資格がないので引退する」と言い出すのです。


「正造、愚才短慮浅学にして、衆人の長たるべき器量には決してあらず。ただ誠実に被害地を永遠救い出さんとして、あるいは多数に対し、しばしば無礼の演説をなし、しばしば主なる諸氏に向かっては言辞円満ならず、あるいはせっかくの多勢出京をも、これを説得して帰らしめ、あるいは示談金を得るの機会あるも、永遠に救うの決心から、これを排斥してかえって飢餓に陥らしめ、・・・いくたび当路者に膝を屈するも、いくたび同志を集合するもその効少なし」


「正造老いてとかく病気、その任を尽さずして機に遅るることしばしばなり。諸氏の上位にあって言語動作の上においても、いたずらに長老の体を装うに過ぎざるのみ。よりては、正造も自今・・・諸氏の驥尾に付して一心ただ難きをさけざるの尽力を為すべし。諸氏今より公議体を組織し・・・正造に代わってこもごも正道を守り、正義を張り、・・・必ず救済の方法を講ぜられよ。正造近々帰国、他の壮年および青年にも図りて、諸氏を推して参謀に仰ぎ、正造もその命に服せんことを約せんとす」


正造が若者たちにすべてを任して本当に引退したかというと、実はこれが全く違うのです。以下に述べる事実から、前回の手紙と今回の上記の手紙は、明らかに2枚舌だということがわかります。


これより少し前、彼は入院中の順天堂病院からハガキで「最大急務。被害激甚地の小児悪徳商人のために死亡せしは、即ち殺されたると同じ。これを等閑にせば人類社会にあらず。心あるものは専心尽力調査すべし」と、若い活動家たちに指令を出していたのです。


そして、引退宣言の4ヵ月後の12月1日、被害民の一人である庭田源八に、この調査に協力しようとしない息子の恒吉を非難する、次の手紙を書くのです。


「恒吉君はなぜ鉱毒死亡表調査に反対せらるるや。・・・この調査に賛成せざる如きは奇怪千万と存じ候。これは、誰か側に邪道がありて恒吉君を悪魔の境に誘うて御身の明を暗ませるにはあらざるか。如何」


更に、翌々日の3日には、正造は次の手紙で、庭田源八にしつこく追い討ちをかけるのです。これでは引退どころではないではありませんか。


「ご令息恒吉君にお話し下されたく候。・・・些細のことに迷いて、本旨本目を失うなかれとお話し下されたく候」