支離滅裂きわまる朝倉書店の「日本史事典」 | 足尾鉱毒事件自由討論会

支離滅裂きわまる朝倉書店の「日本史事典」

これまで百科事典や歴史事典の矛盾・虚偽・欺瞞などを指摘してきましたが、この事典はそのうちの最悪例といえると思います。
足尾鉱毒事件については、次の順序で説明されています。


①「被害農民は再三上京して政府と交渉しようとして警官と衝突した。」
②「社会主義者・弁護士・キリスト者・学生が被害農民の救済・支援の運動を展開した。」
③「田中正造は、明治34年の12月に、問題を解決するために、天皇に直訴するという非常手段に出た。」
④「この動きの中で、政府は明治30年に鉱主に対して鉱毒除去の工事を命じたが、効果がなかった。」
⑤「明治35年には、(政府は)改めて鉱毒予防工事の実施を命じた。」
⑥「しかし、鉱毒問題は基本的解決をみることはできなかった。」


読者は、当然、このとうりの順序で事件は経過したと理解するはずです。しかし、実際の順序は、①,④,③,②,⑤,⑥なのです。


①の交渉は4回ありますが、うち2回の交渉のあとに政府は④の工事を命じました。その効果は直訴以前に現れています(明治34年10月6日・朝日)。明治30年のこの歴史的な公害防止工事によって、農地が回復しはじめていたのです。
農民と警官との衝突は、明治33年2月の4回目の反対行動のときですが、鉱毒除去工事を実施した以上、農民の要求を抑えるのは政府として当然の行為ではないでしょうか。


④の「この動きの中で」は、「支援運動や直訴などがあったため」としか理解できませんが、この文章では、時間を完全に逆転して読者をだまそうとしています。まことに卑劣なやり方で、政府や古河を悪者にする意図が露骨に表れています。


②と③も時間を逆転させていますが、③の直訴があったから②の支援運動があったのに、これを反対だと思わせようとしたわけです。
②の支援運動は、東京の知識人の間で一時的に盛り上がっただけで、事件の解決には何の影響も与えていません。


⑤の明治35年の工事は、明治30年の工事の改善命令だけで、これも重要な事実ではありません。


⑥の文章は完全なウソです。被害農民も農地が回復したと証言していますし、『田中正造全集・別巻』の「年表」にも、「明治36年10月、鉱毒被害地の稲豊作」と記されています。この事実は、鉱毒問題が解決したことを何よりも証明しているではありませんか。