私は以前、他県にある某塾で2年間教室長をさせて頂いていたことがあります。
当時も今と変わらず、
本来は高校入試専門塾、補習塾であるはずのその塾で、その常識を根底から覆し!難関大学合格を成し遂げることが出来る教室を作りたい!という思いで指導をさせてもらっていました。
新任研修では「早慶合格を出せる塾を作ります!」と全員の前で発表すらしました。
当時から、その塾で大学受験指導をやろうとか、ましてや早慶などの難関大学合格を目指そうなんて考えている室長は見たことがありませんでした。
完全にたった1人での新境地の開拓になります。
室長生活がいよいよスタート!
ありがたいことに近所の進学校の生徒さんを中心に、高校生が少しずつ少しずつ集まってきてくれまして、
国公立大学で埼玉大学、富山大学、高崎経済大学
私立大学で明治大学、中央大学、法政大学、専修大学、駒澤大学、東海大学などの合格者を輩出することが出来ました。
これが室長初年度の実績です。当時はメソッドもなく、ただただ必死に指導をしていました。
1年目が終わり、2年目に突入する事になり
当時16名いた中3生のうち13名が高校生になっても塾を続けてくれることになり、
高校生の在籍比率がUP。
しかし、難関大学を目指す高校生を指導できる講師の確保が出来ませんでした。
当時は、まだ開校2年目で、赤字教室です。そうもいきませんから自分でやらざるを得ない。
自分でやらざるを得ないのですが、以前の教室の方針として「室長は基本的に授業に入らない」というものがありました。
でも、難関大学受験に対応出来る講師がいません。
どうしたら良いでしょう?
若かった自分は個別塾でありながら土曜日の遅い時間を利用して集団授業を始めてしまったのです。
個別指導の料金で集団授業を実施するのも嫌だったので、特別に許可をもらって半額の授業料でやっていました。(今はそんなシステムはありません)
そうすることで室長としての業務に支障が出る事を防げると思ったのです。
週に1回だけ授業をやればよいのですから、しかも勤務時間外の土曜日の終業後です。
こうすることでどうにか教室は回っていくはずでした。
しかし、いざ新年度がスタートしてみると
教室内の平均月謝が低すぎるという話が出て来ました。
そりゃそうです。
半額でやらせてもらっているわけですから。
しかもそのクラスに新規入塾生が入ってきてくれたりするので、ますます平均月謝が下がっていきます。
そうすると「やはり集団授業は良くないから個別指導に戻せ」と言う話になってきます。
でも、講師はいないんです。
難関大学受験に対応出来る講師がいないのに、だれが指導をするのでしょう?出来ない講師に無理矢理指導してもらう事が生徒のためになるのでしょうか?
自分で責任を持って指導をするためには、1人で全員を集団で指導する以外の選択肢はなかったのです。
そういうスタイルだったので当時は高校生の夏期講習なども企画することが出来ず、そうすると平常月も平均お月謝が低すぎ、講習時期も同様に低すぎ、結局経営面でどうにもならなくなってしまいました。赤字、存続不可能になってしまうわけです。
それだけではないです。社会人として至らないところが多々あり、最後は解雇されてしまいました。
解雇されるかもしれないと思っても、高校入試専門のはずの講師に難関大学受験指導を任せる事ができませんでした。
どうしても譲れないプライド、意地があったのです。それは今でも変わりません。
でも解雇されてしまえば、何も出来ません。
生徒に会うことすら出来ないのです。
結局、本当に解雇されました。
・・・・・・・
30才を目前にしてNEETです。
関係ありませんが、ハローワークで幼稚園、小学校、中学校、高校とずっと一緒だったヤツと再会しました。
ずっと一緒にいるヤツだと思っていましたけど、30目前にしてハローワークで再会したときはさすがに苦笑せざるを得ませんでした。
ずっと仕事を探し続けて、半年以上が経ちました。
以前時間講師をさせてもらっていた塾のオーナーさんに突然声を掛けて頂けまして、今の塾の室長になることが出来ました。ほんと嬉しかったですね。これほど嬉しかったことはなかったです。
半年以上、30才を目前にしてNEETをしていたわけですから、その間に本当に多くの事を考えました。なぜ失敗したのか、そして失敗したことによって何よりも大切にしていた生徒と離ればなれになってしまったことを悔やみました。
自分が室長としてきちんと仕事をしていれば、あの子たちに迷惑を掛けることもなかった。
そういう激しい後悔、反省の念を持っての新しい塾のスタートとなりました。
赤字教室を引き受けてのスタートです。14名しかいない教室でした。
今でもあの時、解雇されて、生徒たちと離ればなれになった日の悔しさを忘れないように、そして彼らとの楽しかった思い出を忘れないように、ずっと彼らと一緒に撮った写真を飾って仕事をしています。
2003年12月31日の写真なのかな?・・・
当時中3だったみんなと大晦日に集まって勉強をしました。
そして最後年が変わるときに、みんなでカウントダウンしてクラッカーを鳴らしました。
年が明けるタイミングでチャイムが鳴るようにセットしておいたのに、みんなの掛け声でチャイムが全く聞こえませんでした。
まさか、この子たちのセンター試験の日に一緒にいられないなんて、この日は全く思ってもいませんでした。
あの日があるから、今があるのかもしれません。
この子たちとの指導経験が今の指導に継承されています。
今日は塾をクビになったお話でした。
ではまた!