最初で最後の詩集として、誕生月でもある二十歳の五月、ネフローゼにより死を覚悟した病床で本は編集されたという。

 

序詞「五月の詩」には死んでいく青年と生まれくる大人が清冽な季節の中で向かい合うのが爽やかな言葉で綴じられることになった。

 

それから26年後の五月、寺山の心電図の針が止まるのを見ていた谷川俊太郎は「われに五月を」という題を思い出した瞬間、哀しみと解放感とともにその死を受け容れることができたのだという。