~4回目の命の危機~
1981.11/13~113日間 国立療養所中野病院
発病以来大量のステロイド治療の為、最初のステロイドの副作用で起きたステロイド性肺結核の発症。
10月下旬にかけ驚異的な効果を示してくれたケナコルトも減量を始めれば又気管支炎を再発。
レントゲン検査で鎖骨部位に異常陰影が認められ、ステロイドによる結核と判断。
保険所に書類提出に向かう自転車を漕ぐ私の眼には泪があふれ、なんでこんな事態になるのだろうかと、情けなくて信じる何をも
持てない日々でした。
と同時にステロイド大量投与で結核への懸念があったからこそ、池袋の院長はこの病院を転院先に選ばれたのだろと感じました。
重症患者のためステロイドは抜く事は出来ない中での結核治療は、リファンピシン+ヒドラを9ヶ月間服用する事となった。
年老いた両親とおさな児が居るので結核隔離病棟入院へ(アレルギー科併設)
此処から重症喘息に加えステロイドの多くの副作用・余病との闘いが始まりました。
5歳と3歳の息子たちとは隔離先の病院の中庭に遊びに来てもらい病室から手を振る事しか出来ない日々でしたが、育児等は主人と
両親が尽力してくれていた113日間でした。
私にとって有り難かったのは、此の入院より上芝幸雄先生が主治医になって下さった事でした。
療養所と言う名の通り結核病棟を持ちアレルギー科のある国立病院で、上芝医師は小児の結核や喘息患者も診ていて患者の息使い
声の張り・歩行などを御自身の目や耳で診て診断される先生でした。
親身になってみて下さる先生への御返しは良く成り行く事でしたが、まだまだ悪くしない様に務めるのに精一杯でした。
今でもこの先生のもとで教わった薬や吸入の使い方のイロハ、患者としての心得・病状の境界判断を学びました。
充分に心得を役立たせても尚ぶり返す症状の厳しさを、回避する術がない事が悩みの種でした。
毎回手を尽くして診て頂いたあとは、いつも天に運を任せる気分でした。
此処の個室は縁起の良くない部屋として知れ渡っていました。
再発作の時に大部屋から個室へ移動させられ、喘鳴一つ聞けないのに呼吸困難がどんどん悪くなる❢
当直医も婦長も?なのに、私は脂汗で今にも気を失わんばかりのアップアップの状態に正月休みの主治医に連絡を取る。
勿論酸素吸入もステロイドの点滴も持続していました。
喘息の判断基準の喘鳴とは…此れが聞けない時に肺でなのが起きているのか?
此の時は末端の肺胞迄も感染した痰で埋め尽くされ肺機能不全になっていたのだと思われました。
適切な処置が施され呼吸が少し楽なり咳が出来るようになったら、驚くほど大量・洗面器一杯程の痰が排出されました。
此の時以来自分でも喘鳴だけでの判断はしない様になりました。
身体は自然に身を護るため、その時が来るまで呼吸を浅くしたり咳を止めたりしてしまう事を命がけで学んだからです。
現在では、サイレント発作と呼んで注意をしています。
日常生活では、一昼夜眠りが取れないとか、階段の昇降が出来なくなったり何時も出来る事が出来なくなったら入院・・・
と行きたい所だが家族への憂慮から足踏みしてしまいがちでした。入院が我が儘のように感じてしまっていた時期です。
7回目までの発作全てが感染を伴い一年のうち殆どを抗生剤を服用していて、ステロイドの吸入が出る迄ずっと続きました。
咳を止めてしまう事が命取りになるとは・・・何より私の咳の強さが疲弊を招いてるのは間違いなかったので咳止めの処置は
正しかったのでしょう。ただ苦しみを緩和させようとした吸入は余計苦しみを増し、直後の急変を見つけた婦長は院内放送で
直ぐ主治医を呼び出してくれる声を遠くに聞き意識が遠のきました。
直ぐに点滴の側管より強心剤・ネオフィリンなどであろう薬を入れてくれ一命を取り留めた感じでした。
以後自らの身を護る責任の一端は自分にもある事を学び、我が儘や思い込みでは無い経験を真摯に伝え嫌な事は拒絶する権利
を主張しようと思いました。
一命は取り留めたものの、呼吸困難は続き激しい孤独な闘いは個室の中で続きました。
背にもたれたままの姿勢で呼吸不全に立ち向かい、滴る脂汗のための鉢巻き勿論鼻には酸素チューブ・手には24時間持続点滴
で疲れ果て、眼は虚ろに宙を泳いでいました。
見るも哀れな姿に抗う術も無く、一日中深呼吸をしていると掃除婦のおばさんや・配膳の方たちが皆、明日は無い命・名札が
無くなる事を案じていたそうです。
実に4ヶ月近く結核病棟の個室で悶々と黙々と過ごした日々・・・子供との面会も許されず、主人にも両親にもみんな私の為に
人生で味わなくて良い思いを多々させてしまうばかりの自分の存在自体が情けなく思えるばかりでした。
結核病棟は少し独特で内服と安静が第一が基本。 社会から隔離される国指定感染症で解雇にはなりませんが、色々な背景を
持った方が多くいました。 入院中いつも顔を合わせていたおじさんが有る夜切手を貰いに来たのに…翌朝には自らいのちを
経っていた事や、窓の外を飛び降りていく人を目にしたり長い隔離病棟の背景の厳しさも考えさせられました。
勿論私も落ち込む事や投げ出したい事はしょっちゅうでした。 でも誰も変わってくれる訳でなく呼吸だけは自分でしなくては
いけないのですから、逃げ出す余裕すらなかったのかも知れません。
そして何より陽の目を見ず亡くしてしまった児の命と引き換えに生き残った私ですから、生きる責任があったからです。
自分の努力だけでは護ってこれなかった命ですから、45年の間一度として死にたい❢と思ったことは無かったのは本心です。