〜1度目の命の危機〜
1980.1/18〜14日間:地元診療所
45年前28歳の時、病と無縁の私が突然喘息発症したのは3人目妊娠中6ヶ月。
年末の天皇賞に当たり求めた家具の塗料が誘因となり、発症した喘息は重症でした。
風邪にかかり新調した家具のニスで気道を傷め、咳と呼吸苦が酷くなり往診のネオフィリンでは効かず呼吸困難になり入院治療になりました。
身重でしたので最後の最後までステロイドの使用は見送られていましたが、重責発作は収まる所を知らず母体保護の為に投与が開始されました。
これがステロイドとの出逢いでした。
入院当初からの酸素吸入を受けてはいましたが、呼吸困難下で何日も過ごした事や大量のステロイドが胎児に与える影響は計り知れないと先生に告げられました。
身動き一つ出来ない中でチアノーゼを示す爪をみつつ、お腹の子への酸素だけは絶やすまいと必死に呼吸を続けた体力もつき始め、爪は紫を通り抜け真っ白くなりました。
先に産んだ子達は周りに託せもしましたが、お腹の子には陽の目も見せて上げられず私と共に呼吸不全で死ぬのだ!!と感じていました。
「大丈夫だから!!良くなれるから、今は赤ちゃんが先に命を落とすかもしれないし、同時に母体もこのままだと危ないから」との見解で母体の命を救う事を優先としたステロイド投与の開始でした。
ネオフィリンの時と同様にステロイドも効かず、投与量が嵩みました。
チアノーゼも酷く、今までに使った事の無いステロイドで抑えた為に胎児への影響を説かれ、承諾書にサイン。
直後に感傷に浸る間もなく中絶手術。
承諾から時間を置くこと自体が、精神的ダメ-ジが大きい事を先生は知っているからでした。
ひとつの生命の代わりに護られて在る、私の生命の重さを胸に刻む日々の始まりでした。
中絶と言っても6ケ月、術後は生まれて初めて感じる程の激しい腹痛の後産に亡き児の無念を感じ続けたものでした。
医学的な判断が切なる思いを超え、尊い一つの生命を自ら諦めてしまった。
自分の生命の犠牲にしてしまった事は『償い』の二文字で許されることでは無い思いで一杯だった。
お腹で動いていた生命を諦めた酷い母親でしかなく、自責の念に縛られ生命の重さが後産の激しい腹痛に示された如くに、十字架の様に精神的に私に覆いかぶさってきました。
発作が快方に向かう中、正気のまま水中に顔を付けられて絹糸一本の呼吸道を与えられた様な状態で疲労の限界を超えていた私は錯乱状態になり夜中にもかかわらず先生が診てくれ睡眠剤を注射して眠らせてくれました。
寝ていないのは私だけでなく、付き添ってくれていた父は勿論看護師さん先生も皆で護ってくれた命でした。。
健康であっただけに突然生死を彷徨う発病のギャップは大変大きかったのですが、28年の間病気一つさせずに育ててくれた両親への深い感謝の念を心底持ったのもこの時でした。
このまま良くなるものと思っていたし、亡くした児の分も元気にならずして申し訳が立たないと涙を隠して過ごしてきましたが…
私を待ち受けていたのは何と45年に渡る厳しい病状でした。
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