前回の記事で
「自分の表現がきもちわるかった」
というニュアンスのことばがでてきたので
分析してみることに...
可視化されたもの(絵や写真)を単体として
見ると
そんなに烈しいものは感じなかった。
ということは、Instagramの場所に何か
ヒントがあったのかもしれない。
この場所の、多量な視覚情報(ましてや自身の念が込められているような)で、
吐き気がしてしまっていたのかも。
視覚や聴覚、その他
嗅覚、触覚、味覚
からの影響は、精神的な作用を
比較的受け易い。
精神と体調の安定を図る為に、
部屋や環境を整えたりする必要が
自分にはあったのだということ。
そのようにして初めて、
自身の健康が保たれる。
生きる、ができる。
可視化されたInstagramに対し、
"文字"は、いくら降り積もってゆこうが
自分をくるしめたことはなかった。
それどころか、糧、のような存在として
私の中に留まり続けてくれている
ような気がする。
では、何かを
生み出したい
という欲求は、
一体何なのだろうか。
どこから、やってくるのだろうか。
私自身、人に影響を与えたい
というよりも
自身に内在し
混沌しているものを表出することによって
人に知ってもらいたい、という欲求が
つよかったのかもしれない、ということ。
なので、私がこれまで
生み出してきたものは
全く人のためのものではなかった。
だからきっと、
傲慢さが滲んでいたことであろうと思う。
この先、 嘲けるような
人間にだけはなりたくない。
珈琲を淹れる 時のように、
製作することができないだろうか。
投げやりな、感情任せ
魂任せのような表出はもう
自分のなかだけで十分である。
内在するものに
無意識に
苦しんでいるのだろうか。
自由になることは
いくらでもできるが
そこへ自らの責任を課せられるかどうか
あとは
それだけなのかもしれない。