皆さま、こんにちは。
税理士・公認会計士(船戸明)の「本業ブログ」にようこそ。
10年以上前、とある機関誌に小さな文章を寄稿しました。「ここのところ出張が多かった。北は北陸、南は沖縄。行く先々で「先生」と出迎えられる。そして、経営者の方に出会い、新しい土地に出会い、現場で働く人たちに出会ってきた。そしてその度に、自分がいかに無知であるか思い知らされた。……先生と呼ばれ続け、知らず知らずのうちに「先生バカ」になっていないか」。
その思いは、税理士として独立してから今日に至るまで、まったく変わりません。つい1週間前も、メールマガジンに書きました。「先生と 呼ばれ続けて バカになり」。
そうしたら昨日(5月31日)、日本経済新聞1面の『春秋』で「先生」や「センセイ」の話が登場しました。昨今の政治状況を嘆きながら、「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という川柳も登場させて。
検索すると、2年前の毎日新聞にも同じ話が紹介されていました。「「先生と呼ばれる(言われる)ほどの馬鹿(ばか)でなし」との言葉がある。相手が「先生」と呼ぶ時は必ずしも尊敬しているわけではない、との戒めだ。すでに作家、太宰治の戦前の作品に「いやな言葉」だと評したくだりがある」(2022年10月29日、毎日新聞)。
私は先生と呼ばれることに神経質でありたいと考えてきました。詩人の茨木のり子さん(1926-2006)は、先生と呼ぶことに神経を使っていたそうです。「若い時から私はこの先生という言いかたにかなり注意を払ってきたつもりだ。自分なりの考えで、教師を仕事としている人、医師、それから実際に自分の何かの習いごとの師、この三者以外は先生をつけまいと。それで押し通してきてしまったが、ここへきてだいぶ軟化してきた」(『ハングルへの旅』朝日文庫、P.114)。
軟化してきた理由は、50歳を過ぎて習い始めた韓国語に「――さん」に相当する言葉がなく、そのため、やたらと「先生」が飛び交うからだとか。
ハングルを習い始めて1か月近くが経ちました。久しぶりに「○○先生」(文字通り習いごとの先生です)と呼びかけたのですが、なんだか新鮮な気分に。ハングルを学ぶ理由の1つが、生徒になりたかったからです。
なんとか落ちこぼれないようにしなければ。予習までは手が回りませんが、隙間時間を使いながら繰り返し復習しています。旅の恥は搔き捨て、と言いますが、習う恥も搔き捨て、という心構えで。
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